氈@序
 
 1979年12月にグッゲンハイム美術館で始まったボイスの回顧展に際し、館長トーマス・M・メッサーは、観客たちはボイスの芸術が彼らの芸術の文脈の中に受け入れるのは困難で、不可能であると判断するかもしれない。そして、ボイスの表現した、あるいは暗示した概念の領域を有効とすることを拒否するかもしれない、と書いている。[1]ボイスは戦後ドイツの美術界において、絶大な影響力を持った美術家であるが、彼の芸術について考える時、漠然としたいかがわしさを感じ、絶対的な評価を下すことにためらいを感じる。実証主義的な理論によって共通の世界観を確立してきた我々にとって、彼の神秘的な思想は現実離れした胡散臭いものと感じられ、ユートピア的な理念を芸術に付与することにも抵抗を感じるのだろう。
 この論文ではボイスのパフォーマンスやオブジェ、政治活動といった全般的な活動を見ていくことでその全体像を把握し、さらにボイスへの批判を通して彼の芸術を考えていきたい。「世界中に広がる名声と悪評」[2]、このようなボイスへの評価を検証し、ドイツの伝統的な精神史に連なるとされる彼の思想的背景を見ていくことでボイスが本当に意図していた芸術とは何だったのかソに迫りたいと思う。

 ボイスの幼年期

1979年12月からグッゲンハイム美術館で開催された回顧展のカタログ[3]によると、ヨーゼフ・ボイスは1921年オランダとの国境に近いドイツの町、クレーフェに生まれた。砂丘と湿地に囲まれたそこは「恐ろしい風景」と呼ばれ、ゲルマン的、プロテスタント的な国の中に残されたケルト的、カソリック的飛び地であり、ヨーロッパにおける領地をめぐる歴史が何度も繰り返された土地であった。国境などそこに住む人々にとっては些細なことであり、東には近代人の領土という国境の意識など意に介さない、遊牧民たちやウサギのような移動動物たちが横断していた平原が広がっていた。ボイスが1930年に引っ越したリンデルンは、シュタイナーの三元論と対比される「自由、博愛、平等」をモットーとするフランス革命の思想家、アナヒャルシス・クローツの生誕地であり、ボイスは生涯彼を信奉していた。作品に表される子供時代の体験についてボイスは次のように語っている。「『牡鹿のリーダー』や『ジンギス・カンの墓』のような言葉があらわれる時、それらは明らかに心理学的な意味を持っています。それは現実として1人の子供が初期に経験したもナあA部Iには夢なのです。これらの個々の認識の極端な主観性は後生における客観的な様式を形づくっています。ほとんどそれらは概念あるいは言葉としてよりも、むしろイメージとして表れています。私は手に羊飼いの杖を持ち、周りに想像上の群れを従えた羊飼いのようにふるまった年月を思い出すことができます。それから植物や植物学に関心を持ち、それは生涯に渡って続いています。それは全てをノートに書き留めた、その地域に生息するあらゆるものの一種の目録を作ることで始まりました。私たちの遊びはより手の込んだものとなりました。見つけることができるものは何でも探すということに興味を失い、それから私たちのコレクションを見せるため端切れでテントを建てました。私たちが手に入れた昆虫やネズミやカエルや魚や蠅から古い農機具や工業的な何かまで何でもありました。」[4]自然科学への探究は芸術へと転向するまで彼の研究課題であったが、芸術家への転身の後も、自然の形態や原理や生長の様式への関心はボイスの思考の基礎となった。彼の芸術と生活における熱や成長過程の隠喩は植物学から生じている。ドローイングに植物を張り付けたり、ガラスケースのなかにオブジェを展示するなフ独特のョもこ謔、な子供時代の経験が基礎となっている。ナム・ジュン・パイクが、ボイスを理解するためには、彼が標準的なドイツ作家ではなく、オランダ国境のフラマン・フランダース(ライン河下流)出身の人間であるということを強く意識しなければならないと述べたように[5]、彼の子供時代 の環境と関心はその後のボイスの芸術に大いに影響を与えたと考えられる。
 
。 ナチス時代
 
 1933年にはナチスが政権を掌握し、ボイスが「誰もが教会に行き、誰もがヒットラーユーゲント(ナチスドイツの青少年団)に行った。」[6]と言うように、抑圧的な政治的雰囲気がクレーフェにも及んだ。その当時の教育的な偏向、つまり北方の神話や民話の強調により、戦争以後これらの領域はナチズムへ協力したとして、ドイツ国内ではタブーとされ、その結果、戦後の世代はそれ自体の歴史をほとんど知らないということになった。
 40年にはボイスはナチスドイツの空軍に徴兵され、急降下爆撃機のパイロットとして出撃し、傷痍勲章をもらっている。この戦争の間に、小児科医を目指していたというボイスは芸術家への転向を決意するが、その要因の1つとして次のように語っている。「学業休暇中のポズナ蜉wでのこナした。然アメーバについての講議の真最中に、私の目の前の教授は、動物とも植物ともつかない毛の生えた一対の単細胞生物を研究して一生を過ごしたのだ、という激しいショックが私を襲ったのでした。それは私にとって非常な驚きでした。『違う。これは私の考えていた科学ではない』と私は叫んだのでした。黒板のあのアメーバの絵が今でも脳裏に残っています。」[7]これは自然科学による物質主義的世界観が、人間の内面にある本質というものを隠してしまったとするボイスの科学への不信を表している。さらに戦争の体験はボイスにとって、またドイツ人全体にとっても精神的な傷を残し、ボイスの芸術家への転向の決定的な要因となったことは間違いない。戦争終結後ボイスは1947年にデュッセルドルフ芸術アカデミーに入学し、彫刻を学び始める。
 
「 初期の作品

この頃から50年代にかけてボイスはキリスト教的なイメージとケルト文化に影響を受けた十字架などのドローイングや彫刻を数多く制作している。アン・テムキンによれば第二次世界大戦とナチズムにより 、戦後のドイツ人たちは破滅的な遺産を背負い、そのアイデンティティに集団的な危機を示していた。だがそれは「経済跡」として轤黷トいるソ的、行政的な国家の再建の成功によって隠されてしまっていた。ギュンター・グラスやハインリッヒ・ベルのような戦後の作家たちはその物語の中で国家的、文化的アイデンティティの問題を探究し、家や町並みといった物理的な再建が破壊された内面の構造を覆い隠したということを示唆した。そんな中でボイスもやはり自分自身とドイツ全体のアイデンティティの回復のために模索していた。アン・テムキンはボイスの初期のドローイングのキリスト教的イメージを、ひとつの宇宙の、ドイツのロマン主義の汎神論を想起させる自然に基礎づけられた骨組みの中に宗教的な要素を位置付ける、より広い文脈の中に溶け込ませようとする試みであったとしている。[8]そして初期の十字架の彫刻の数々は、ドイツ文化への懐疑の表れであり、ゲルマン民族としてのドイツ以前の文化的アイデンティティを取り込もうとしたものだった。 
 1949年に制作された「ハンドクロス」という十字架は、胸元に渦巻き紋様が施されたケルトの磔刑図に影響を受けた作品である。ケルト文化は「創世なき美術」と呼ばれ、反自然主義的で非再現的な形態で、巻ひげ状の曲線文様が特徴であった。また立体表現では`された人間とョ物ともつか「奇妙な「貌(かお)」が多く表わされた。[9]ヴォーリンガーはこのヨーロッパの北方全体を風靡した組紐文様の装飾様式に対して、「この装飾が純粋に線的にして無機的な基礎に立っているにも拘わらず、吾々はそれを抽象的装飾と呼ぶことを躊躇する。むしろ吾々は、この線の紛糾のうちに不安な生命を見逃す訳にゆかない。」また「かの北方諸民族は峻厳苛酷な自然の領域内において、それの抵抗や、彼らとの隔絶や甚だしい不安などを感じた。彼らは甚だしい不安や不信の念をもって外界の物や現象に対した。」[10]と書いている。ヴォーリンガーはケルトの装飾がギリシアにおける自然との親和関係とは反対の自然への不安によって抽象化されたものだとしている。従ってケルトの装飾文様および形態のデフォルメは苛酷な自然への畏怖の念から生まれたとも考えられる。
  ローマ人によって平定された後には、ローマ美術の影響を受けて人像表現が見られるようになるが、それ以前のケルトでは自然の中に神々を見い出し、神を人の姿で表わすことはなかった。しかしローマの影響を受けてからもケルトの人像は、理想的な人間像を表すことはなかった。その中で多く見られるのが人頭の盾ナある。切られ?を表した彫刻スく発見されているが、これは人間の魂は死んでもなお頭部に宿るという考えによるもので、ケルト人による霊魂不滅の観念を表していると考えられている。ボイスの作品にも1976年のヴェネチア・ヴィエンナーレの展示「市電停車場」の際使われ、85年の遺作となった「パラッツォ・レガーレ」のガラスケースに収められた鉄製の首があるが、あるいはケルトのこの観念を意識していたのかもしれない。
 ローマ人の支配下に置かれしだいに衰退した大陸のケルト文化は、アイルランドなどの極西の島嶼地方に移動した。アイルランドではローマ軍がアイリッシュ海を渡れなかったことから、純粋なケルト文化が存続し、そして5世紀に聖パトリックの布教によってキリスト教化されたアイルランドではラ・テーヌ美術から続く装飾文様芸術をキリスト教の宗教美術にも援用し、島のケルト独特のケルトキリスト教文化を発展させた。ここでつくられた十字架や聖書の装飾写本には伝統的なキリスト教の図像が使われることはなく、組紐文様や渦巻文様や動物文様などの緻密な装飾文様で埋め尽くされている。ボイスの初期の十字架はこの時代のアイルランドの十字架装飾の影響を受けていB
 またボイスは19O年にはエディン奄ナ「ケルティック、(キンロッホ、ランノッホ)スコットランド交響曲」というパフォーマンスを行い、翌年バージョンを変えて「「ケルティック+〜」というパフォーマンスを行っている。これに関して彼は「初めは単純な疑問でした。スコットランドとは何なのか。私は周りの匂いを嗅ぎ始め、アンテナを延ばしました。そしてすぐに印象を受けました。不意に、突然に。私が受けた印象は長い間私の中にあったものです。スコットランド、アーサー王の円卓の騎士たち、聖杯のサガ。これらの要素は結合され、かなりの日数の間私のなかで作用しつづけていました。予備的な作品の動機です。それは単にプログラムを満たすものとして評価されるべきではありません。その予備的な作品は私の人生に関わっていました。」[11]としている。ケルトの伝承文学であるアーサー王の物語や、キリストが最後の晩餐に用い、アリマタヤのヨセフが十字架上のキリストの血をうけブリタニアにもたらしたという聖杯を騎士たちが探求する物語である聖杯伝説は、60年代から70年代以降のモダニズムによる合理主義的な資本主義社会への反発によって、ある種の異教信奉とともに見直されたフであった。[12]人心的な世界観に代チて、自然崇拝や反知性的ではあるが神秘的なケルト社会の形態が探求されたのである。ボイスは伝統的なキリスト教的イメージやケルト的イメージによって、汚染されたドイツの伝統を回復するために、ヨーロッパ人の祖先の多様な姿と、近代の合理主義に対抗する神秘的で豊かな精神性を求め、キリストの復活のイメージに託して人間性の再生を目指したのであろう。
 
」 フルクサスとの出会い

ボイスはデュッセルドルフ芸術アカデミーのモニュメント彫刻科の教授に就任した翌年、1962年にフルクサスのメンバーであるナム・ジュン・パイクやジョ−ジ・マチュ−ナスと知り合った。フルクサスは61年にジョージ・マチューナスによって構想された、反芸術的アーティスト集団である。起草者であるマチューナスは既存のアートを専門的で排他的であり、アーティストのエリートとしての地位を正当化するためにあるとして批判した。フルクサスの意義を既存のアートと比較し、フルクサス・ア−ト−アミューズメントとして次のように書いている。「社会におけるアーティストの非専門的な地位を確立するため、存在しなくても用が足りるということ、他に対して包Iであるということを表明しュてはならない。観フ自己充足性を表明しなくてはならない。なんでもアートになりうるということ、誰でもアートを行なえることを表明しなくてはならない。したがって、ア−ト−アミューズメントはシンプルで、楽しくて、親しみやすく、意味のないことを行ない、特別な技術も、たくさんの予行練習もいらないし、必要性もなく、非制度的でなければならない。ア−ト−アミューズメントの価値を低めるため、量を限定せず、大量生産をし、誰でも手に入れられ、最終的にはすべての人がつくることができるようにする。フルクサス・ア−ト−アミューズメントは後衛であり、前衛との“高級独裁的”競争に参加する欲求も、いかなる権威をも持たない。シンプルでナチュラルなイベント、ゲーム、ギャグの単純構造、非演劇的な性質を追求する。スパイク・ジョーンズ、軽喜劇、ギャグ、子供のゲーム、デュシャン、それらすべての統合である。」[13]
 ボイスは芸術制作にあたって、「拡張された芸術概念」や「社会彫刻」といった概念を表明している。77年に行なった講演「生命体への参入」[14]のなかでこの概念について述べている。ここでボイスは、芸術は不正や不義や人間の権利N害、さらに戦争などを阻止すスめの鋭利な刃物のよネ武器たらねばならないが、これまでの芸術はこの要請を満たしてはおらず、バロックからコンセプチュアル・アートへと至る芸術の変遷は、人間の必要性から極めてかけ離れた活動であるとしている。旧来の芸術は社会の全く特殊な関連に拠を置く、風変わりな存在とみなしうる人々の活動であり、我々の様々な生の必要性、権利上の必要性、その他様々な発展の必要性を満たすことはできなかった。そこでボイスによると、これまでの芸術の発展的展開という革新では、人間の生の必要と問題とに応じえないので、芸術概念は拡張へと至らなければならないのである。拡張された芸術概念によって、芸術は特権的な芸術家のものであるというのではなく、全ての人の労働のなかで芽生え、労働志向は芸術作品への起点となる。そして文化活動と産業労働との間の差異は消滅する。この概念によって創り出された社会をボイスは「社会彫刻」という。ここでは彫刻は単なるオブジェを指すのではなく、思考活動そのものが彫刻であり、有機的な社会、すなわち「社会彫刻」は創造的存在である全ての人間の自由な創造性によってのみ、形成、発展されていくのである。
 以上のよネボイスの芸術概念とフルクサフ反エリート主義は、芸ニ生活の間の、そして芸術の表現自体の境界線を取り除くという共通の信念を持っていた。ボイスはフルクサスについて「そこにいた人々と同じくらい多くの異なる概念や解釈がありました。そしてその異なる意見の人々と仕事をする機会は最も魅力的な側面の1つでした。一枚の紙を引き裂くことから社会の変革のための概念の構成までどんなものでも含まれていました。」[15]と語り、芸術は芸術家に限定されるべきではないとするグループと接触したことは彼にとって非常に重要なことであった。だが、芸術と日常生活の垣根を取り払い、芸術を大衆化しようとしたマチュ−ナスのフルクサスの理念と、芸術と生活を融合し、芸術概念の社会への応用によって社会を変革しようとしたボイスの思想は最終的には相容れないものでもあった。

、 パフォーマンス

■「シベリア交響曲、第一楽章」

ボイスはフルクサスのパフォーマンスの表現形式について、次のように述べると同時に、自分のパフォーマンスを音という要素を使った彫刻理論の拡張としていた。
 「最初のフルクサスのコンサートは絵画や彫刻よりむしろ音に関心のある人々によって催されましたWョン・ケージやラ・モンテ・ヤン竄ウらにストックハウゼンフ関連ゆえであり、彼らは電子音学に関心があったのです。でも彼らの態度は革命的なもので、コンサートという伝統的な概念に対抗して行なっていました。(中略)
 音のアコースティックな要素や彫刻的な質は常に私にとって芸術において必要不可欠なものなのです。また音楽に関してはピアノやチェロにおける私の素養がそれらに私を引きつけたのかもしれません。それから使用する素材の観点から彫刻的な形態の全体的な理解を拡張するために、彫刻的な素材として音を使用しました。その結果、金属や粘土や石のような固い素材だけでなく、音や騒音や言語を使用するメロディといった全ての物が彫刻的な素材となるのです。そして全ての物は思考を通してそれらの形態を獲得します。したがって思考もまた彫刻的な手段としてとらえられます。それは一般的な制作の本当に超越的な見解である、極端な見解です。」[16]
 ボイスは1963年2月3日、4日にデュッセルドルフ芸術アカデミーで行なわれた「フェストゥム・フルクソルム・フルクスス」での初めてのフルクサス参加作品を次のように述べている。
 「これは私の初めての公式なフルクサスフ出演でした。私はジョージ・マチ[ナス、アリソン・ノウルズ、fィ・コープケ、ディック・ヒギンズによるコンポジションに参加し、私自身の作品を2つ披露しました。最初の夜に、私は『2人の音楽家のためのコンサート』を行ないました。それはおそらく20秒で終わりました。私は2つのパフォーマンスの間で先を急ぎました。2人のドラマーのぜんまい仕掛けのおもちゃのねじを巻き、ピアノの上に置き、ぜんまいが止まるまで彼らに演奏させました。それがその目的でした。フルクサスの人々はこの短いアクションが私の躍進だと感じましたが、2番目の夜のイベントは彼らにとっておそらく重すぎる、複雑で人類学的すぎるものでした。しかしその『シベリア交響曲、第一楽章』は私の将来の活動全ての必要不可欠なものを含んでいました。
 シベリア交響曲はエリック・サティによる『貧しき者のためのミサ曲』の要素と彼の『薔薇十字の鐘の音』の和音をともなうピアノのためのフリー・コンポジションでした。これには薔薇十字会の、あるいは少なくとも神秘的な意図がありました、薔薇十字会員にさえそれと分からなかっただろうけれども・・・。私は黒板の前に死んだウサギを縛り、小さな粘土の塊でピmを調整しました。ピアノからウサギまアく一種の電気を伝える塔を形づ驍スめに松の小枝とワイヤーを繋ぎ合わせました。その組み合わせは、特に黒板に書かれた一連の文章によってさえぎられた、アコースティックな物でした。その文章は拭き取られたので、何だったのか忘れましたが、これは消滅したというのが1つの意図であったと言うことができます。それから私はまたワイヤーを集めそのアクションは終わりました。その写真は『シベリア交響曲』のために準備したものです。即興の雰囲気という感じを与えています。その床の上にはジョージ・マチューナスとエメット・ウィリアムズによるイベントの残りの物があります。それはジョルジュ・ブレヒトの手段です。
 私はまだディック・ヒギンズの驚いた顔を思い出します。彼はこのアクションは全くネオダダとは、ブルジョアたちにショックを与えようと試みたネオダダとは何の関係もないということを理解しました。例えば私がウサギを使った時、それは初めての生のウサギの出演でしたが、その意図はネオダダと何の関係もなく、素材を通した変革の表現、生と死の表現に関係していました。」[17]
 あるデンマーク人の記者はコペンハーゲンでおこなはれVベリア交響曲の34楽節の抜粋についてフようにくわしく述べている。
「彼Sく単純なシンボルを使用している。2日目の夜の彼のパフォーマンスは『シベリア交響曲』からの1時間30分の長さの抜粋(第34楽節)だった。その始まりの主題は『十字架の分割』であった。ひざまずいてボイスは地面に置いてあった2つの小さな十字架を、黒板の前までゆっくりと押しやった。それぞれ十字架にはストップウォッチが巻き付けられていた。彼は黒板に十字架を描き、それから拭き取って、下に『EURASIA』と書いた。
 その絵の残りはボイスが線に沿って死んだウサギを導くための基礎となった。ウサギの足や耳は 長く、細く、黒い木の棒によって広げられた。彼がウサギを肩に担いだ時、その棒は地面に触れた。ボイスは壁から黒板まで行き、ウサギをそこにおろした。戻る途中で3つの事を行なった。彼はウサギの足の間にパウダーをまき散らし、その口に温度計を差し込み、チューブの中に息を吹き込んだ。それから彼は半分の十字架のある黒板まで戻り、ウサギの耳を震えさせ、同時に鉄の靴底が固く結ばれた彼の足は床の上のもう1つの鉄の靴底の上で宙に浮いていた。時々、彼はこの靴底を激しく踏み下ろした。
Aクションの基本的な内容はこのようなものチた。そのシンボルは完全に明らかであA誰にでも解釈できる。十字架の分割は東と西、ローマとビザンティウムの間の分裂である。半分の十字架はウサギが移動しているヨーロッパとアジアの再結合である。地面の上の鉄の靴底は歩くことは困難で、その大地は凍っているというメタファーである。その要素に当てはまるのは、雪、寒さ、風という3つの妨害である。この全てはあなたが「シベリアの」という標語を知っていたら理解できる。」[18]
 1つの芸術作品には象徴的な同一視と象徴的な表現が同時に存在する。ドナルド・クスピトはパフォーマンス・アートをそのようなシンボルの二重性を与えられたものであるとし、ボイスのパフォーマンスをその二重性をはなばなしく利用したものだと述べている。[19]

■「ボス-フルクサスの歌」 

1963年にコペンハーゲンで最初に実演され、それから64年の12月1日にベルリンのルネ・ブロック画廊で行なわれた「ボス-フルクサスの歌」はその後の15年間の豊富な表現形式がすでに示唆されている最初のパフォーマンスであった。
ヴォルフ・フォステルによるとそのパフォーマンスは午後4時に始まって真夜中にった。5メートルかける8メートルの明るいLの一室に、その空間の対角線上にフェルト鼕ェが横切ってあった。その中にはボイスがいた。フェルトの巻き物の長さは2.25メートル、幅46センチ、その巻き物の両端にはボイスの延長として2匹の死んだウサギがいた。部屋の角には脂肪が置かれており、ボイスの左隣には178センチの長さの薄い銅板を包んだフェルトの巻き物があった。[20]
ボイスによれば、「私にとって『ボス』はとりわけ重要な音の作品です。最も頻発する音は牡鹿の__という鳴き声のようなしゃがれ声でした。これははるかに遡って達する原始的な音です。そして後の1967年のデュッセルドルフ芸術アカデミーでモニュメント彫刻科の教授として入学式の日にしたスピーチの主な表現でした。
そのようなパフォーマンスは常にその背後に1つの理論を持っています。情報なしに情報を与える楽譜です。音響上、意味のある情報をもったそれを積むことなしにエネルギーを伝えるものとしてちょうど搬送波を使うようなものです。その波は普段動物の王国で見い出される種類の音を運んでいます。その波はまだ形を成していません。意味がそれに形を与えます。私が作る音は動物から意識的に闢?れられています。私はそれを人間の形式以上にフ形式との接触を生み出す1つの方法としてトいます。それは例えばコヨーテのように異なる能力を持っている全ての他の種の中の協力者の中でエネルギーを製造しているもののスケールを広げるために、私たちの限定された理解を越えていくための1つの方法です。
 私がフェルトの中にいるということは意味論の範囲で私自身の種を消すということを試みている、搬送波のようなものでした。それは棺の古い始まりに相似していました。偽の死の形態です。」[21]
 ボイスのそのようなアクションは死と再生の儀式である。外界から遮断されたフェルトという棺の中で死を体験し、根本的に自己を変化させてしまう。一度死んで、動物たちの原始的な力を借りて再生するのである。
 
■「死んだウサギに絵を説明するには」

死んだウサギは「死んだウサギに絵を説明するには」にも表されている、ボイスのパフォーマンスに頻出する形態である。「死んだウサギに絵を説明するには」は1965年11月26日デュッセルドルフのシュメーラ画廊で行なわれた。画廊は閉鎖されていて、そのパフォーマンスは出入り口と通りの窓からだけしか見えなかった。ボイスは頭をィと金箔で覆い、右足には鉄の靴底 を縛り付け、一フ左足にはフェルトの靴底を敷いていた。[22]ヘ腕の中で死んだウサギを揺すってあやし、そして「絵画について私は見えるものを全て彼に説明しました。私は彼の足を絵に触れさせて、その間にそれらについて彼に話しました。私は彼にそれらを説明しました。なぜなら私は絵画について人に説明することを本当に好まないからです。もちろんこれには名ばかりの真実があります。ウサギは頑固な合理主義をもった多くの人間以上に理解します。私は彼に絵画について本当に重要なことを理解するために絵を良く見ることだけが必要であると言いました。ウサギはおそらく解説書が重要である人間よりも良く知っています。ウサギはすぐに変わることができます。そして実際、他に何も必要としないのです。」[23]ボイスは私はウサギなのです、と語っている。
 クスピトは通常すばやく動くことができる生き物である死んだウサギは戦争中にほとんど殺されてしまった戦闘機のパイロットの完璧なシンボルであるとした。そのウサギは動いていると生きているように見えるが、一方で死んで、自分で動くことのできない、戦争によって消滅させられた、そして新しい生活に向かト自信がなく手探りしている彼の感情を象徴化していフである。そのウサギは古い自己から生まれた新「自己である。[24]そしてそのような革命的な行為は、既存の合理主義的な概念によっては成されず、ボイスの「拡張された芸術概念」によってのみ成し遂げられるのである。

■「コヨーテ-私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」

ボイスのパフォーマンスは死と再生、そして癒しの儀式でもあった。ボイスはそのために死と再生、治癒を司るシャーマンに例えられている。そのイメージに代表されるのが、1974年にアメリカで行なわれた「コヨーテ-私はアメリカが好き、アメリカも私が好き」である。それはニューヨークのルネ・ブロック画廊で行なわれたボイスとコヨーテとの5日間に渡る対話である。飛行機から目隠しをしアメリカ大陸すらも見ないようにして、ボイスは空港に到着するとすぐにフェルトに包まれ、救急車に乗せられてコヨーテの待つ画廊まで運ばれていった。その画廊は防壁となる金網で仕切られており、観客は外側からボイスとコヨーテの生活を見ることができた。金網の内側には杖、2つの大きなフェルトの断片、音楽に使われるトライアングル、干し草の積み重ね、そして日刊の「ウ[ル・ストリート・ジャーナル」の山が置かれていた。そpフォーマンスの様子は次のようなものだった。「宴Cアングルが鳴らされた後で、『不確定のエネルギー』を意味している壁の外側で、耳障りなタービンエンジンの騒音の録音が鳴らされ、混沌とした生命力を呼び起こしている。この瞬間ボイスはトロワ・フレールの壁に描かれたような『動物に精通している』シャーマンによって身に着けられた伝統的なクマの爪の手袋を思い出させる彼の手袋を身につけ、そして閃光をともなってその中に消えていくように、自分のまわりをそれで包んで彼の毛皮/フェルトを着る。それから彼はフェルトの包みのてっぺんの隙き間から、エネルギーの伝導体や感覚器官やアンテナ、あるいは避雷針のような彼の杖の彎曲部を伸ばした。」[25]
 ボイスはそのパフォーマンスが終わってデュッセルドルフに帰る時もフェルトに巻かれて空港まで連れていかれたことに関して、実際にコヨーテが感じる孤独な感覚を完全に体験したかったと語っている。[26]かつてコヨーテはインディアンにとって全領域に渡る最も強力な神だった。ユーラシアの神話の中のウサギや鹿のように変容の表象であり、物質的な存在から精神的な存在へまたそのノも、意のままに変化できるとされていた。それから白人がチて来て、コヨーテは「トリックスター(詐術やいた轤ナ秩序を乱す神話的形象、創造的かつ破壊的などの性格をもつ両義的存在)の原型」に引き降ろされた。巧妙さや適応性は下品で、ありがちな狡猾さとして解釈され、コヨーテは卑しい存在となり、白人たちによって狩り出された。[27]このパフォーマンスでのコヨーテはアメリカ人によって迫害された動物であり、アメリカ人によるインディアンの迫害をも示唆している。ボイスはコヨーテをアメリカに残る精神的な傷の象徴とした。ウォール・ストリート・ジャーナルは合理的な物質主義社会の象徴であり、そこにコヨーテが放尿することは迫害に対する象徴的な意義申し立てとなった。
 アメリカでのボイスへの反応について、デビット・レビ・ストロースはアメリカ人たちはジレンマに陥っていたと書いている。[28]それは我々をも定義している物質主義を否定することをせずに、どうしたら我々は(我々自身のものに類似している)ボイスの概念主義に喜んで応ずることができるだろうか、ということだった。しかし、ボイスにとって物質主義は決して否定されるものではなかった。物質主義の合理的な分\力によって、新たな自然科学的世界観を形づくっていった歴史ネ必然性を認識していた。[29]だが、人類のさらなる飛フためには物質主義は乗り越えなければならず、それができるのは芸術だけであり、全ての人間が持っている潜在的な創造性だけが新たな社会を作ることができると信じていた。このパフォーマンスにおいてボイスは治癒の能力を司るシャーマンであり、アメリカに残る精神的な傷を癒し、自然との対話を通して合理的な物質主義の枠の中では捉えることができない精神的なものを呼び戻そうとしたのである。

・ 政治活動

ボイスによるアクションは政治活動へと広がり、それは1967年、教師として働くデュッセルドルフ芸術アカデミー内での「ドイツ学生党」の結成に始まった。ドイツ学生党の活動はボイスの「拡張された芸術概念」に従って、学生の自治の確立と、民主的な入学手続の確立をその最終的な目標とした。彼は「拡張された芸術概念」によってこれらの変革を彫刻と見なし精力的に押し進めていき、1971年には入学審議委員会によって不合格となった142人の入学志願者を彼のクラスに受け入れると宣言した。ボイスは「入学許可数の制限は基本的権利に反するものであり、収容ヘの問題は現実に即して公平に解決されなければならない」[30]とラている。再度入学志願の不合格者を自分のクラスに受け黶A入学許可を要請してアカデミーの事務局を占拠したボイスは学術研究省から即刻解雇の通知を受けた。4年間に渡る裁判を経て和解が成立するが、この出来事から自由大学の構想を固めていった。
 1971年にボイスがデュッセルドルフに設立した「国民投票による直接民主主義のための組織(自由市民運動)」は人智学者のルドルフ・シュタイナーの社会機構の三層化「精神の自由」、「権利の平等」、「経済の博愛」という考え方を基礎としている。「現代の要求の中で生きているものは、厳密にいって決して議論の対象とはなりえない。歴史の要求がそれである。歴史の要求は社会主義に他ならず、社会主義は正しい意味でのみ理解されねばならない。歴史の要求は民主主義である。しかし歴史の要求は、また自由主義、自由、個人主義でもある。この最後の要求が全く近代の人々の関心を引くことがないとしても、歴史の要求するところは不変である。つまり人類が三層化(経済的には社会主義、法律ならびに国家生活には民主主義、精神生活には自由、つまり個人主義)の考えに立って、社@構を整備することをしないうちは、話は一歩も先に進まないことにな、。この課題は人類に対する唯一の救い、現実の救済とみな黷ヒばならないであろう。」[31]という理念がシュタイナ−の著作に包括的に表されている。このような考えに従って、ボイスは西側の私的資本主義と東側の国家共産主義を克服しうる第三の道の理念を提唱した。ボイスは言う。「万人が芸術家であり、人間は自らの自由から─というのも人間が直接体験するのは自由という局面なのだ ─他の局面を、『来るべき社会秩序』という『総合芸術作品』において規定するに至る。文化領域における自己決定と共同決定(自由)、また法制度における自己および共同決定(民主主義)、経済領域における自己および共同決定(社会主義)が、さらに自己管理が生起する。すなわち『自由な民主主義的社会主義』が生まれる。」[32]ボイスは同じく第三の道運動を信奉する人々と、エコロジー的な危機、大国の軍事的な対決、政治、経済、イデオロギーの各体制の対立状況、豊かな工業国と貧しい低開発国との間のギャップ、失業問題等々の危機を打開すべく政党「緑の党」の創立に参加した。そこで真の自由は議会制民主主義ではなく、国民投票による直接民蜍`にあるとして、政党独裁政治の打破を「もう二度と政党には投票しなナ下さい」という言葉と共に訴えた。
 ボイスはこれらの政動のために多くのマルティプル作品を制作している。「どうしたら政党独裁政治を乗り越えられるか」というタイトルの1万枚つくられたショッピング・バッグには、自由な民主主義的社会主義を説明したスケッチが描かれ、街頭で通行人に配布された。そしてボイスはそこに集まった大勢の人々と語り合った。マチューナスはマルティプル作品を芸術の「価値を低め、量を限定せず、大量生産し、誰でも手に入れられ、最終的には全ての人が作れるようにする」[33]ために制作したが、ボイスはマルティプルを自分の考えを伝える伝達手段として考えていた。自分の見解を部分的に示し、見た人にそこに書かれていない部分を考えさせようとしたのである。

ヲ 自由国際大学

またボイスは入学を拒否された志願者たちとともに展開していたアカデミーとの攻防と平行して、自由大学の構想を進めていた。1971年11月には「自由大学のための委員会」を、1973年には「創造性と学際的研究のための自由国際大学協会」を設立した。そして翌年、ノーベル賞文学賞を受賞したハインbヒ・ベルらと「自由国際大学(FIU=Free International University)」n立した。「FIUとは何か」[34]によると、自由国際大学は拡張さス意味における芸術であり、それを創り出し、発展させていくことに、全ての人々が、自分自身の能力および創造性をもって関与している「社会彫刻」である。人間は創造的な存在であり、創造者であるということが、自由で、自己を規定する個人として、その人の持つ価値全体の中で認識される。こうした価値を実現することが人間本来の使命である。人間は誰もがみな、多かれ少なかれ才能や資質を備えているが、それらは「自由」の条件のもとではじめて最適かつ広範囲に発展させることができる。このような観点から自由で、非国家的な学校、大学、教育機関である FIUがつくられたのである。この学校は自由と創造性を具体化したものであり、よって学校が自主管理下に移るように、つまり学校のなかにいる当事者、教える者と教えられる者が管理する自治を目指している。具体的な講議内容は、芸術家や芸術の教育者を育成するためだけでなく、実践的な経済学や社会学、自然科学などが含まれていた。さらに自由国際大学は単なる大学というだけでなく、硬化した概念を改変する゚の超党派的、学際的、国際的コミュニケーションを組織化し、対話の場としフ役割を担っていた。学校を社会彫刻と見なし、改革しようとしてスボイスにとって、自由国際大学はその活動の頂点をなすものであった。

ァ オブジェ

■ 彫刻理論

彫刻の素材としてはボイス独特のものであり、最も代表的な素材は脂肪とフェルトである。これは1943年の戦争中の飛行機事故で重傷を負った際に助けられたことが基となっている。それはボイスが操縦していたユンカー87戦闘機がロシアの高射砲に撃たれ、クリミア半島の吹雪の中に墜落し、タルタル人によって事故機の中で意識不明のところを発見されたというものである。ボイスはその時の体験を次のように語っている。「私は『Voda(水)』という声を覚えています。それから彼らのテントのフェルトと鼻を刺激する濃厚なチーズと脂肪とミルクの匂いを覚えています。彼らは暖かさを取り戻すように脂肪で私の体を覆い、暖かさを保つための断熱材としてフェルトで私を包みました。」[35]
 この話はその真偽に関わらず、死と再生をテーマとしたボイスの作品の象徴となる話と言えるだろう。そしてこの暖かさの理論はシュタイナーの理論にも影響されてボイフ芸術を形づくっていくことになる。
 ボイスは1963年のフェルト作品「アgの薬」について、伝達の手段としての芸術と語っている。[36]そしu私の彫刻的な試みの過程で、私はいつも『死』という概念によって取り巻かれていた何かに対立して現れる何かに気が付きました。複雑な特徴を持つ暖かさの形態に対比して、極めて萎縮した小さな形態の中で永遠の伴侶のように発展させた 死の冷たさに対して暖かさという特徴を持って表現された何かです。私はその暖かさと冷たさは空間より上のレベルでの彫刻の原理であるということを認識しました。それは拡張と短縮、不定形の形態と結晶のような形態、混沌とした形態と確固とした形態に相当する彫刻の原理です。同時に時間、運動、空間の明らかな知覚を得ました。」というようなボイス独特の暖かさの変遷という彫刻理論は、蜜蜂の巣作りを基礎としている。蜜蜂への関心は1923年にシュタイナーが行なった「蜜蜂について」という講演によっている。シュタイナーはそこで流れる蜂蜜や六角形の蜜蝋の穴や花粉集めの神秘や自然における穴の構造の類似や蜜蝋や骨や血液の変遷について述べた。[37]ボイスは蜂蜜や蜜蝋の流動性と蜜蝋によって巣穴を作るよう居サ化の原理から自身の彫刻理論を発展させた。熱に反応する蜜や蝋は不定型の混沌オた素材であり、一方で幾何学的な巣穴のような 冷却化されて結晶化黷骭エ理を持っていることはボイスにとって基本的な彫刻的な形式であった。「蜜蜂社会の熱性の有機組織は、疑いなく、私が蝋と脂肪を蜜蜂に関連づけるに至った本質的な要因である。蜜蜂、というよりむしろ彼らの生活形態で私の関心をひいたのは、こうした有機体全体に渡る熱性の組織であり、こうした熱性の組織の内にこそまさに彫刻的な形体が存在している。蜜蜂は一方では極めて流動的な要素であるこうした熱性の要素を持ち、他方では彼らは結晶質の彫刻を形成する。彼らはまさに理にかなった完全に幾何学的な建築を形成するのである。そこにはすでに、たとえば一定の条件をみたすと、幾何学的な形体となって現れてくる脂肪性の多角形(=巣室)から、彫刻理論のなにがしかを見ることができるのである。しかしながら蜜蜂の本来の放熱性の性格とは、流動的な流出の要素であり、その際脂肪は熱にとかされ、やがて流れ去ってきえてしまうのである。こうした不確定の運動の要素から出発して、やや動きの少ない要素をへて、ひとつの形体が、幾何学的、ロ的な全体像となって現われるひとつの形体が生れてくる。蜜蜂はこれを規則正しく行チているのである。」[38]これらを基礎としてボイス独特の素材である脂ェ使われているのである。
 

■脂肪

「ボスーフルクサスの歌」の時にも置かれていた脂肪の塊「脂肪の角」は現代生活の硬化したシステムへの挑戦だった。ボイスによると角というものは人間の精神の機械的な傾向を象徴している。我々の四角い部屋や四角い建物、四角い町などの現在の社会の基礎は全て直角の組み合わせで建っている。それは我々の文化や科学や生活の過程の無機物化したシステムを表しているのである。潜在的に混沌とした素材である脂肪を角に置くことは、この無機物化への挑戦だった。流動的な脂肪の特徴が社会システムの変革の象徴となっているのである。[39]この「脂肪の角」と同時期の作品「脂肪の椅子」についてはボイスは次のように語っている。「ここでその椅子は一種の人間の尻、消化を助け、排出する暖かさの過程の領域であり、性的な器官であり、興味深い化学変化であり、意志の力に心理学的に関係している尻を表しているので、私はこのことを強調するために椅子の上にそれ(脂肪)を置きました。ドイツでは『椅子蝠ヨの丁寧な言い方でもある』のだから語呂合わせとして合成された冗談です。また椅子塩bの断面図の特質に反映された、混沌とした特徴を持った使い古しの無機物オた素材でもあります。」[40]そしてこの「脂肪の角」や「脂肪の椅子」によって理論的に話すだけでは不可能な化学変化を人々の間におこすだろうと考えていた。

■ フェルト

フェルトは脂肪と同様ボイスの代表的な素材である。1985年のイギリスのアンソニー・ドフェイ画廊での展示「プライト」はフェルトを使った大規模な展示だった。それは画廊の内部にぐるりとフェルトを取り付けて、グランドピアノと黒板と温度計を置いた作品だった。ボイスはその展示を始めは冗談から始まったと述べている。[41]その画廊の後ろのビルが解体されている時に、騒音に悩まされていた画廊に出した防音のアイデアから始まったのである。そしてそこから 危険や騒音や温度などのような外部の影響からの遮断というインスタレーションが作られたのである。
 「プライト」は外界から空間を遮断することと、その中を歩くことで自分の身体や自分の身体の機能に気づくということを意図している。そこには全て覆われているために防音の効果と暖かさを感じ?果がある。暖かさという効果はそこに置かれた温度計の上昇によって表されている。そして?ほとんどゼロにまで消すことができるという防音の効果は、上に黒板(楽譜)uかれたグランドピアノで表されている。黒板に線はあるが書き込みはなく、その代わりとして体温計がその上に置かれ、ボイスにとって暖かさが最も重要な特質であり、彫刻の本質にとって非常に重要な規準であるということを強調している。人は暖かさを感じ、そこが音を吸い取るということに気づくと同時に、圧迫感を感じることもあるだろう。なぜならボイスはそこに一種の拷問、つまり隔離するための精神病院の患者の部屋というアイデアも持っていたからである。ボイスにとってフェルトは絶縁体あるいは遮蔽するものであると同時に外界から身体を守り、エネルギーによって発生した熱を保存するためのものであった。

ィ 二分する評価

■ボイス批判

ボイスはヨーロッパのアヴァン・ギャルドの全世代に影響を与えている[42]と言われていたが、実際その評価は二分している。ドイツ人の批評家ベンジャミン・H・D・ブクローは1979年のグッゲンハイム美術館での個展に際して、ボイス自身のカリスマ的資質や神話がその作品から分ツことができないとして、痛烈に批判している。[43]ブクローはボイスの戦争中の飛行機事故のフタルタル人との出会いを、見せ物的な伝記の型にはまった寓話としている。神話n作するということは、様々な理由で、個人の自伝の歴史それ自体としての事実性を受け入れることができないということなのである。そしてその神話は、その芸術家がドイツのファシズムとそれに起因する戦争によって印された時代にどのようにして慣れようとしたかという真実を語っているとしている。
 ボイスは飛行機の墜落の前からタルタル人たちを知っていたと、同時に語っている。「私はすでに彼ら(タルタル人たち)と 良い関係を結んでいて、ぶらりと歩いていって彼らと一緒に座っていた。『あなたはドイツ人ではない、タルタル人だ』と彼らは言って、彼らの一族に加わるよう私を説得しようとした。」[44]ドイツファシズムによる戦争は、この時代に生きた全ての人やそれに続く世代にひどい精神的な傷痕を残した。従ってブクローによればこの 「あなたはドイツ人ではない、タルタル人だ」とボイスが述べることは、彼のドイツの戦争への関与と市民権を否定しようとしている証拠なのである。彼の作品と神話はドイツの集団的ュ治の狂気による破壊の責任を許し、時期尚早に甘んずることによって新しい独自性を見い出すの?る。そしてブクローはそれらがヨーロッパを破壊し始めるという真の現実と悪夢となOに、リヒャルト・ヴァーグナーの作品がドイツ人の神話と音楽という領域においてゲルマン人の恍惚の中でこれらの集団的な回帰を期待し、祝ったのと同じくらい、ボイスの作品においてその悪夢の不合理な結果を見ることは可能であろうとし、ニーチェの「ヴァーグナーの場合」を引用している。
 「最後の忠告が一つ!おそらくこれが一切を統一している。―理想主義者であれ!―これこそはわれわれのなしうることのなかで、最も賢明なことだ。人間どもを高めるためには、自分が崇高でなくてはならない。われわれは雲の上を歩きまわり、無限なるものについて演説し、身のまわりに偉大な象徴を並べ立てよう!高く高く!どしどし!『意気揚々たる胸』をわれわれの論証たらしめ、『美しい感情』をわれわれの弁護士たらしめよう。美徳は対位法に対してすらも勝ちを収めるのだ。『われわれを改善する者が、みずから善良でないはずがあろうか?』人類はいつもこう推論して来た。だからわれわれは人類を改善しよう!―そうすれば黷れは善良だということになる。(そうすればわれわれは『古典作者』にさえ成る。―シラーは『古者』に成ったのだ。)低級な官能的刺激、いわゆる美の追求はイタリア人を衰弱させたれわれはいつまでもドイツ的であろう!モーツァルトの音楽への関係すらも―これはヴァーグナーがわれわれドイツ人を慰めるために言ったことだが!―けっきょくのところ、ふしだらなのだ・・・・・われわれは断じて承認するまい、音楽が『気晴らしに役立つ』ことを、音楽が『人を快活にする』ことを、音楽が『楽しませる』ことを。われわれは断じて楽しみを与えまい!―人々が芸術について再び快楽主義的な考えを持つようになったら、われわれはおしまいなのだ・・・・・そんな考えは悪しき十八世紀なのだ・・・・・それに対抗する最良の索は、内密の話だが、一服盛ることだ―偽善を(『この言葉を咎めるな』)。これは尊厳を与える。―さらに適当な時を選んで、陰気な目つきをし、公然と嘆息し、キリスト教的に嘆息し、偉大なキリスト教的同情を持ち出そう。『人間は堕落している。彼を救済するのは誰か?彼を救済するのは何か?』と―それには答えずにおこう。われわれは用心深くしなければならない。もろもろ@教の開祖になりたいというわれわれの野心を抑えつけよう。だが、誰も疑いはしない、われわれが人間~済することを、われわれの音楽だけが救済することを・・・・・」[45]これはニーチェがヴ[グナーの論文として記したものである。
 さらにニーチェは次のように書いている。「事実ヴァーグナーは全生涯を通じてただ一つの命題を繰り返していた。彼の音楽は単に音楽を意味するのではない!と。そうではなくて、もっと多くを意味するのだ!と。無限に多くを意味するのだ!と・・・・・『単に音楽ではない』―いかなる音楽家もそうは言わない。もう一度言うが、ヴァーグナーは決して全体から創造を始めることができなかった。彼はまったく選択の余地なしに、寄せ集め細工を、『モチーフ』・身振り・方式・二重・百重を作らざるをえず、音楽家としては修辞家たるに止まざるをえなかった―それゆえ彼は原理的に『意味するもの』を前景に押し出さざるをえなかったのである。『音楽は常に手段にすぎない!』これが彼の理論であったし、そもそも何をおいても第一に彼に可能な唯一の実践であった。しかしそう考える音楽家は一人もいない。―ヴァーグナーは自分の音楽を本気で受け取るように、深く受け取る、にと全世界を説得するために文学を必要としたのであって、その理由は『この音楽が無限なるものを意味驍ゥらである』。ヴァーグナーは生涯にわたって『理念』の注解者だった。」[46]
 確かに、黷轤?ボイスに当てはめることは可能であろう。
 


■ロマン主義の影響
 
 「現代の芸術は伝統的な芸術の最後の目標です。また私の理論の観点から、現代の芸術の後には人類学的な芸術が始まります。たとえ私が芸術家の製作を批判的に分析するように芸術について話すとしても、私にとってその過程は、その精神的な世界から物質的な世界への変換の人類学的な過程は、他のもの以上に興味があります。しかし私にとってそれは抽象的なものではなく、それは最も具体的な、いわば、科学です。同時にこのことは私にとって具体的な人類学の始まりなのです。」というボイスの言葉をあげると同時に、ベルニス・ローズはボイスの概念はサン・イグナシウス・ロヨラやパラケルススやドイツ・ロマン派やルドルフ・シュタイナーのように多様な著者たちの幅広い読書に深く負っており、これらの思想家たちはすべて物事の精神性と宇宙空間の中への精神的な力の拡張に興味を持っていたとして、ロマン主義に連なる精神性ボイスへの影響を指摘している。[47]またボイスはゲーテの影響からバラの花を指して「革命の目標に向けてi歩のプロセスを示す極めて単純明瞭な実例であり、イメージだ。なぜなら、バラの花が咲くのはひツの革命だからだ。花は突然に咲くのではなく、有機的な成長過程を辿って開花する。花弁は緑葉中に萌芽の形で含まれており、成長過程の中で徐々に緑葉から形成されてくる。萼と花弁は緑葉が変形したものである。それゆえ花は有機的な変成過程を経て形成されたものとはいえ、葉や茎との関係で言えばひとつの革命なのである。」[48]と述べている。ゲーテの思想はロマン主義の根本的な基礎として、人間と自然との統一そしてこれ故の理想と現実の人間との統一であった。そして彼は構造の最初の現象と生命の発達の形を探究し、数学的な概念や啓蒙的な科学の手順によってではなく、有機的な力の発達に関心を持っていたのである。[49]さらにそれらの概念はノヴァーリスによって発達され、ノヴァーリスは「ありふれたものに高貴な意味を与え、普通のものに神秘的な外観を与え、周知のものに未知のものの威厳を与え、有限なものに無限性の装いを与えることによって、世界はロマン化されなければならない」蜥」した。[50]
 ボイスは現在の政治のあり方を根本的に方向転換するということは、ゲーテ、シュタイナー、スノヴァーリスの思想であったと語っている。「ノヴァーリスは我々の人生を文学的に、あるいは詩ネものにするということについて語っています。この意味で芸術のみが、将来の世界への唯一の跳躍台、跳躍の可能性として唯一のものとして残っています。」[51]
 またカンディンスキーも影響を受けたとされる神秘主義的思想により、カンディンスキーとボイスに共通の概念がみられる。ボイスは思考について次のように語っている。「ドローイングは私の作品における最初の視覚的な形態です。思考という形態の最初の視覚的なもの、見えない力から見えるものへと変化する場所なのです。それは平らだったり、丸かったり、黒板のような固い支持体や紙や皮や羊皮紙のように柔軟な表面の上にもたらされた本当に特別な種類の思考です。それは思考の記述であるだけでなく、あなた方は同時にその感覚を受け入れているのです。均衡という感覚であり、視覚、聴覚、触覚の感覚です。そして全てのものが今一緒になります。思考は人類学的な存在、つまり人間の中に他の創造的な層によって変更されたものとなりキ。それから最後に、特に最も重要な人間の製作物は言語です。だからこの広い理解、このより広いドローイング揄?は私にとってとても重要なのです。」[52]また「それは経験に対する実験の過程です。私が思考につト語る時、私はそれを形態として語っています。概念は芸術家が彫刻を考える方法で考えられるべきです。つまり思考によって作られた形態を探究すべきなのです。それが柔らかく有機的な形態と固く結晶化した形態の違いです。その探究はこれらの極の間を溶かすためなのです。」[53]と語っている。
 ゲーテが色彩に物理的現象以上のものを見い出し、それが神秘主義的に応用されるとシュタイナーは色彩から人体をとりまくアウラを論じ、また同時期の神秘主義者ベザントとリードビーターは「思念=形態(Thought-Form)」という本を出版している。この本は「人間のアストラル体とメンタル体は、訓練を積んだ観察者には、肉体を楕円形に取り囲む光輝く霧のように見えることがある。このいわゆる《アウラ》は色彩を帯びており、そうした色彩は、透視能力によって観察されるその人物の性格、思考、感情の顕現である。」としており、これらの挿図からカンディンスキーは影響を受けているといわれ「る。[54]カンディンスキーはかなり直接的にこの思念=形態という概念を受け入れ、ボイスは思考を理念や理想としv考するものと考えていたというところに違いはあるが、同じく神秘主義的な影響を受けていたといえるだ、。

■ナチスとボイス

だが、カンディンスキーが理想としていた「すべての多種多様な王国を包含する『偉大なる王国』、すなわち『偉大なる精神的なものの時代』」が「第三の啓示」として捉えられ、「第三帝国」をもたらしたように[55]、ロマン主義とそれに連なる表現主義はナチスドイツをもたらした。アウグスト・K・ウィードマンは「ロマン主義と表現主義 現代芸術の原点を求めて/比較美学の試み」においてナチスドイツによって迫害された表現主義とそのナチスとの共通性を指摘している。それは「無言の内省的本性」であった。「〈初期ロマン派〉以降、内面性と、それに伴って避けがたく生ずる世界疎外性が、ドイツ文化およびドイツ精神の展開に決定的役割を果たした。表現主義者は、不幸にも、いくつかの新しい特徴をつけ加えながらこれらの傾向を大いに強化した。表現主義者はこれらの傾向の手の内にはまり込んでいって、うまく最大限に利用される結果となった。国家社蜍`が内面性崇拝の上に栄えたのは、論争の余地のない厳然たる事実である。国家社会主義は、ドイツ人の魂への訴えかけ「界を変革しようとする力、大地に新たな生命を与えんとする歴史的使命に溢れていた。」[56]表現主義はドc人の血の優越性という誤った理想の下に建設された国家にその表現手段を利用されたのであり、戦後のドイツ人にとって、ドイツ的なものを表すものはタブーとされるようになったのである。
 ではボイスは表面的には国境を超越したタルタル人のような人種に生まれ変わったように装って、新たな独裁国家を作ろうとしたのだろうか。またはドイツ人の罪を軽減しようとしていたのだろうか。ドナルド・クスピトはブクローのボイス批判について次のように述べている。「ボイスの非難において、ブクローは事実上、ボイスの全世代を非難している。ブクロー自身の戦後のそしてナチ以後の世代の以前の人たちを。ブクローは名前を除く全てにおいてナチであるとボイスを非難し、彼の個人的な神話を彼のナチの過去をもみ消すものとして見なしている。それは彼がヒットラーの大きな嘘のために堕落したという事実を隠すための大きな嘘なのである。それは彼のファシズムという不道徳行為を隠す゚の不道徳な行為なのである。このようにしてブクローはボイスをナチと同一視するだけでなく、彼が同じ状況にいたとし焜iチになることはないだろうということを証明するかのように判決されない、そして罰せられていないどんなナフ犯罪も許すつもりはないのである。あるいはむしろ彼がそうなっていたかもしれないという無意識の不安を証明するかのようである。このようにしてボイスは悪い父親であり、ブクローは良い息子である。ボイスは悪い古い野蛮なドイツ人であり、ブクローは良い新しい文明化されたドイツ人である。その息子は父親に変化する機会を与えないのであり、まして彼の苦痛に満ちた経験から回復させないのである。一度ナチであったものはいつまでもナチなのである。」そしてブクローはボイスの自己神話化が彼の芸術を無効にしていると考えているのである。[57]

ゥ 結

クスピトはボイスのタルタル人との話について、ブクローが考えているような神秘的な英雄の話ではなく、全く正反対の「無敵というよりむしろ攻撃されやすく、強いよりむしろ弱く、勝ち誇るよりむしろ負かされた、独立独歩の指導者というよりむしろ彼を助ける異国人たちを必要としている人物」[58]の話として、タ^ル人とのボイスの同一化は戦争で溺れていた時につかんだ藁だったと分析している。 個人的な神話はトラウマに対処する方ナあり、精神的な生き残りのために必要だったのである。ボイスは自発的にトラウマと関わることによって、それをvしていった。そして人々の前に出てそれを表すことによって、他の人々も癒したのである。ボイスの個人的なトラウマはドイツ全体のトラウマだった。ボイスの芸術は象徴的な形態で全てのドイツ人の苦しみを実演したのである。そしてそれは彼らの犯罪を許すことではなく、彼らの苦しみを理解することであった。
 またクスピトはボイスの両義性を指摘している。ボイスは詐欺とお涙ちょうだいの手と途方もない単純さはもちろん、優れた才気や豊富な洞察力や叙情味を持っている。彼は自分自身をシャーマンとショーマンとして、神秘主義家と見世物として同時に表しているのである。だが彼の観衆は彼の二重性と一体感を持ち、彼ら自身のものとしてそれを受け入れているのである。クスピトによればボイスはまさに「現代のアイデンティティのジレンマの生きた代表であり、現代の自己における内省的なアイデンティティと外向性の強いアイデンティティの間の分裂を表していた59]のである。
 そして彼のシャーマン的なパフオーマンスは本当の自分を取り戻すための過渡的な空間を創り出そうとするもナあり、独創的な方法で新たな象徴的な意味を負わせ た脂肪とフェルトは、人間であるという意味を回復するために使スのである。ボイスは神秘主義的な方法で社会を変えようとし、病的なナチの下で同情も共感も失ったドイツという社会を、彼の彫刻概念である暖かさで包もうとしたのである。彼のパフォーマンスはドイツ人の自責の念の表現であり、その自責の念を保存しておくものとしても機能していた。ドイツ人の破壊の犠牲者たちの人間性を受け入れ認識すること、こうして感情移入することによって良い方向へと変えていこうとしたのである。そして彼らが破壊した人と同一性を持つようになるのである。自責の念という感情は共感という感情を抑圧してしまうのであり、遅きに失してはいるが、ボイスは冷たく固まった感情を溶かし、人間性を回復させたのである。犠牲を強いた人々は自分自身が犠牲者の一人であると想像しなければならず、それによってのみ犠牲者たちは具体的なものとなるのである。[60]
  さらにボイスの芸術に困惑と一種の反発を覚える理由のひとつに、彼の芸術゙の人生、つまり彼自身とが分かれていないということがあげられる。そのために必然的に彼の意図へと巻き込まれ、彼自身と同キることを強いられるのである。ボイスの芸術の前で私たちは彼と一体となり、共感することを強いられるのである。ボXはそれらの自責の念はドイツ人のみならず誰にでも起こりうることであり、抑圧や破壊を一般的な問題としてとらえている。ロザリンド・クラウスはボイスの再生の神話はドイツではない土地で起こったヨーロッパ人の歴史の寄せ集めであるとしている。そしてそれはドイツ人が自分自身の過去を考えることをせずに、過去を考えるための方法であるとしている。[61]先に指摘したようにボイスがケルト文化を援用することは、ドイツ民族としてのアイデンティティではなくそれ以前のケルト民族、中央ヨーロッパに広がっていた民として、他の人々と同化することが可能であるという点で、自己の置き換えであり、歴史のすり替えであるとも言える。だが、この概念によって、さらにボイスがたびたび述べるユーラシアという理念、地続きであるアジアとヨーロッパとの共生という思想によってボイスの芸術および理念は普遍性を得ているのである。そして極めてドイツ的な雰囲気ロちながら、キリスト教的、ケルト的主題を用いることによってドイツを変えようとしているともいえるのである。
 キム・レヴ唐ヘグッゲンハイムでの回顧展を見た観客たちは、理由の分からない吐き気と頭痛を引き起こし、強く本能的な反応を示したqべている。そしてボイスの文化的で政治的、歴史的な図像学と修辞学は、ドイツの過去における信用に値しない当惑させるような信念に関係していると指摘している。ボイスは誰も口に出して言わないドイツの過去を掘り起こし、検証しているのである。そしてキム・レヴィンはボイスの「ホメオパシー(同毒療法)」という言葉をひいて、彼の芸術はその症状を模倣している、つまりそのトラウマの原因を真似しているのだとしている。「民族主義の代わりに国際主義を用いることによって、そして破壊の代わりに創造を、民族の代わりに人類を、茶色の代わりに緑を、冷たさの代わりに暖かさを用いることによって、ボイスはヒットラーの思想を修正しているのかもしれない。つまり彼の失敗を正しているのかもしれない。」ボイスの意図するところは治療だが、一方でそれは直そうとしている症状を引き起こすことができるのである。飲み込むには苦い薬なのである。[62

[1]Caroline Tisdall, Joseph Beuys, New York, The Solomon R. Guggenheim Museum, 1979, p5.
[2] Ibid., p. 6.
[3] Ibidp. 10.
[4] Ibid., p. 14.
[5]ナム・ジュン・パイク著, 「ボイス-雑草・雑想」, 『ヨーゼフ・ボイス』展, 西武美術館, 1984 p. 18.
[6] Ibid., p.15.
[7]キャロライン・ティスダール著, 「ヨーゼフ・ボイス 日本の観衆のための序説・ボイスの活動について」, 『行為と創造』展ラフォーレ・ミュージアム, 東京都美術館, pp.32-33, 1982年
[8]Ann Temkin, "Joseph Beuys: An Introduction to His Life and Work", Thinking is Form: The Drawings of Joseph Beuys, Philadelphia Museum of Art and The Museum of Modern Art, New York, 1993, pp.11-25
Ann Temkin, "Joseph Beuys: Life Drawing", ibid., pp. 27-71.
[9] ケルト文化については以下を参照
鶴岡真弓著,『ケルト美術への招待』,ちくま新書,1995年. 鶴岡真弓著,『ケルト/装飾的思考』,筑摩書房,1989年. Barry Cunliffe,The Celtic World,1979,McGraw-Hill Book Company.(バリー・カンリフ著,蔵持不三也監訳,『図説ケルト文化誌』,原書房,1998年)柳宗玄・遠藤紀勝著幻のケルト ヨーロッパ先住民族の神秘と謎』,社会思想社,1994年. Christiane Eluere,LEurope des Celtes, 1992,Gallimard.(潟Xチアーヌ・エリュエール著,鶴岡真弓監修『ケルト人 蘇るヨーロッパ〈幻の民〉』,創元社,1994年)T.G.E. Powell,The Cel1980,Thames andHudson Ltd,London(T.G.E.パウエル著,笹田公明訳,『ケルト人の世界』,東京書籍,1990年) 
[10] ヴォリンゲル著,草薙正夫訳,『抽象と感情移入』,岩波書店,1953年. pp.106-107,p.142.
[11] Lucrezia De Domizio Durini,"The Word",The Felt Hat Joseph Beuys A Life Told, New English edition Edizioni Charta, Milano, p.41.
[12] Ullrich Kockel,"The Celtic Quest:Beuys as Hero and Hedge School Master", Joseph Beuys Diverging Critiques,1995,Liverpool University Press. pp. 129-147.
[13]ジョン・ヘンドリックス著, 「フルクサス解明-フルクサス復興」, 『フルクサス』展, ワタリウム美術館, p.134, 1994年.
[14]ヨーゼフ・ボイス講演, 「生命体への参入」, 『ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻』, 人智学出版社, 1986年, pp. 123-128.
[15] Caroline Tisdall, op. cit., p. 8416]ibid., p. 86.
[17]ibid., pp. 87-88.
[18]ibid., pp. 105-107.
[19]Donald Kuspit, "Joseph Beuys: Between Showman and Shn", op.cit., Joseph Beuys Diverging Critiques, pp. 27-49.
[20] Caroline Tisdall, op. cit., pp.94-95.
[21]ibid., p. 9522]ibid., p.101.
[23]Ursula Meyer, "How to Explain Pictures to a Dead Hare", ART news, volume68,Number 9, January, 1970, p.57.
[24] Donald Kuspit, op.cit.
[25]David Levi Strauss, "American Beuys: 'I Like America & America Likes Me", PARKETT, 26, 1990, p. 127.
[26]『ヴィデオ・ブック ヨーゼフ・ボイス』, ペヨルト工房, 1984年, pp. 204-205.
[27] Caroline Tisdall, op. cit., pp.228-232.
[28] David Levi Strauss, op.cit., pp. 124-125.
[29] 『ヴィデオ・ブック ヨーゼフ・ボイス』, 前掲書, pp. 43-44.
[30]Heiner Stachelhaus, Joseph Beuys, Claassen Verlag Gmbh, Dusseldorf, 1987. (山本和弘訳, 『評伝 ヨーゼフ・ボイス』, 美術出版社, 1994年, pp. 105-106.)
[31]前掲書, 『ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻』, p. 30.
[32]前掲書, ヨーゼフ・ボイス講演, 檜山哲彦訳, рヘ場の特性をくまなく探究する」.
[33] ジョン・ヘンドリックス著, 前掲書.
[34]ヨハネス・シュテュットゲン著, 「FIUとは何か-緑の党フ自主的研究機関自由国際大学(FIU)の論文より-」, 『第三の道』第2号, 人智学出版社, 1984年夏, pp. 54-57.
[35] Caroline Tisdalop. cit., pp. 16-17.
[36]ibid., p. 89.
[37]ibid., p. 44.
[38]ゲッツ・アドリアーニ著, 千足伸行訳, 「ヨーゼフ・ボイス」, 前掲書, 西武美術館, p. 13.
[39] Caroline Tisdall, op. cit., pp.72-73.
[40]ibid., p.72.
[41]Interview by William Furlong, "Plight", ART monthly, number 112, December/January 1988, pp.7-8.
[42]Peter Frank, "Joseph Beuys,'the most fascinating of enigmas', ARTnews, April 1973, p. 51.
[43]Benjamin H. D. Buchloh, "Beuys: The Twilight of the Idol Preliminary notes for a Critique", ARTFORUM, January 1980, pp. 35-43.
[44] Caroline Tisdall, op. cit., pp.16-17.
[45]秋山英夫, 浅井真男訳, 「ヴァーグナーの場合」, 『ニーチェ全集 第三巻(第期)』, 白水社, 1983年, pp. 230-231.
[46]同上書, pp.242-243.
[47]Bernice Rose, "JoseBeuys and the Language of Drawing", op.cit., Thinking is Form: The Drawings of Joseph Beuys, pp. 73-117.
[48]ペーター・シャ^著, 「ヨーゼフ・ボイスの作品-万物の新たな造形に向けての個人的な出発-」, 前掲書, 『ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻』, p. 110.
[49] Lucia De Domizio Durini, op.cit. , pp. 101-106.
[50]August K. Wiedmann, ROMANTIC ROOTS IN MODERN ART Romanticism and Expressionism:A Study in Comparative Aesthetics, 1979.(アウグスト・K.ウィードマン著, 大森淳史訳, 『ロマン主義と表現主義 現代芸術の原点を求めて/比較美学の試み』, 法政大学出版局, 1994年, p. 281.
[51] 『ヴィデオ・ブック ヨーゼフ・ボイス』, 前掲書, pp.217-218.
[52] Bernice Rose, op.cit., p. 73.
[53] Caroline Tisdall, op. cit., p. 20.
[54]Sixten Ringbom, The Sounding Cosmos: A Study in the Spiritualism of Kandinsky and the Genesis of Abstract Painting, Abo Akademi, Abo, 1970.(S・リングボム著, 松本透訳, 『カンディンスキー 抽象絵画と神秘思想』, 平凡社, 1995年,p. 99.)
[55]ibid., pp. 211-239.
[56] アウグスト・K.ウィードマン著, 前掲書, p. 2
[57] Donald Kuspit, op.cit., pp. 29-30.
[58]ibid., p. 27
[59]ibid., p.32.
[60]ibid.
[61]Benjamin H. D. Buchloh, Rosalind Krauss annnette Michelson, "Joseph Beuys at the Guggenheim", OCTOBER , 12,1980, P. 11.
[62]Kim Levin, "JOSEPH BEUYS:THE NEW OR", artsMAGAZINE, April 1980, p.157.