1931年ソウル生まれの田保橋淳は、執念の男である。
一昨年、ソウルで世界デザイン会議が行なわれたついでに、田保橋淳の生まれたソウル大学付属病院を横目で見ながら、幼少時代に過ごした生地恵化(hyehwa)を訪れた。中国の上海や北京のような大陸的でゆったりとしたスケールのある街だった。日本にはない日差しと空気を感じ、どっしりとした街路樹の大学路を歩いた。田保橋淳の父はソウル大学の教授をしていたことから終戦によって日本に引き上げるまでこの地で過ごした。そこから、北陸能登の七尾に生活の居を構えその後、金沢美術工芸大学で油画を学ぶ。当時にしてみれば、引き上げ者としての精神的ギャップを受けたに違いないと思うが、その素振りは全く感じられない。グラフィックデザイン学科、学科長田保橋淳と教務主任のぼくとの約10年間の濃密な付き合いからみると、日本人には思えない大陸的なダイナミックで力強い性格を感じる。それは、大学における諸問題の解決の方法からもさまざまな点で、相撲に例えるならば、小技を使わず押して押して押し切るシンプルな技の強さを十分読み取ることができる。 1957年から1991年の間、株式会社電通で広告クリエイターであり、局長として活躍した。時代的に日本の広告産業の売り上げ額が年間700億円から3000億円までに急成長をとげた時代であった。松下電器・ソニー・キヤノン・IBM・マツダ・コマツ・三菱レイヨン・カネボウ・サントリー・味の素・花王・JAL・KDD・富士フイルム・第一生命・生命保険協会・三越・サロンパス・東京ガス・集英社・中央公論・文芸春秋・文化出版局・テレビ朝日・東京デズニーランドなどの日本を代表する企業の広告宣伝の制作を担当し、また、日本宣伝美術会賞・東京アートディレクターズクラブ賞・シェルデザイン賞・日本経済新聞広告賞・朝日広告賞・毎日新聞広告デザイン賞・フジサンケイグループ広告賞・北国新聞広告賞・神奈川新聞広告賞・新聞協会広告賞・日本産業広告賞・日本工業広告賞・消費者に役立つ広告コンクール・広告電通 賞・クリオ賞・ニューヨークアートディレクターズクラブ賞・ロンドンアートディレクターズクラブ賞など180あまりの国内外の広告賞を獲得し、日本の広告デザインの第一線を走りぬ き、現在の広告デザインを作り上げた立役者といっても過言ではない。ところが、あまりにも広告制作者としてのポジションに撤するプロ意識が強く、自己顕示欲の強いアーティストのようなところが微塵も感じられない。美術大学の出身者としては、希有な存在といえるだろう。それは、広告マン魂の結果 かもしれない。 ぼくが初めて田保橋淳のイラストレーションに出会ったのは、1960年代に出版された「グラフィックデザイン体系・イラストレーション」という本だった。その本の前半は、亀倉雄策が「抽象のイラストレーション」というテーマで熱く語られたものだった。その本の中で田保橋淳は具象表現による子供のための絵本イラストレーションをシンプルな切り絵表現で描いた。それは、日本においてグラフィックデザインを初めて体系化する出版であった。だが、その後の田保橋淳は、イラストレーションから遠ざかり広告のアートディレクションの世界に入り込んでいくことになる。 その後、1992年以降、多摩美術大学グラフィックデザイン学科で教鞭をとるようになってから、この10年間でコンピュータを駆使したデジタルイラストレーション表現(ピエゾグラフ)を確立する。それが、今回の「重層する鏡像曼陀羅華」というタイトルのシリーズへと昇華した。そのなかで際立つ点は、鏡像(シンメトリー)と曼陀羅華(朝鮮朝顔)の重なり合う表現を見出した。一見、曼陀羅のようでもあり韓国の仮面 のような不思議な世界を作りあげる結果となった。シンメトリーに対する興味は、生まれたソウルの大陸的建造物からくる尊厳的で象徴的な強さのあこがれかもしれない。また、それぞれの重なり合うイラストレーションは、ただたんに写 された写真の切り張り的なコラージュの引用ではなく、自分の生活環境から見られる観察描写 からのものである。そのデジタルへのアプローチは、まさに油画を描くプロセスと全く同じ手法を使い描いては、削りさらに重ね続けるという繰り返しによって作り上げている。デジタル表現からすると、データが重くなり、あまり好ましくないと思われるが、彼の精神構造からすると、押して押して押しまくるシンプルで力強い結果 となっている。もう一点はやはり、彼の表現者として新たな視覚世界を求める興味と目に見えない原風景へと向かおうとする観察の執念に対してぼくは、強く真実感をおぼえる。それが田保橋淳の全てであり、彼の美意識を表現している「執念の男」にほかならない。 |