≪過去≫日々の課題から卒業制作まで、どんな多摩美生活を送っていたかを振り返る

安次富:今はみんな、たくさんの部下を抱えている偉い人たちで、学生時代も素晴らしい優等生だっただろうと、皆さん思っていると思いますが、どうでしょうか。

現役合格は少数派、女子はたった4人だけ。
目の前の課題に必死だった学生時代。

勝沼:学生の頃は、あまり出来が良くなくて、必死でしたね。僕は美大に行こうと決めたのが高3の夏で、そこから一生懸命勉強して現役で合格したんです。当時は、30~40倍という倍率で、周りを見たらみんな浪人してきていて……。

安次富:プロダクト専修35名くらいの中で、現役は1人か2人。一浪、二浪は当たり前、なかには五浪という学生もいましたね。

石井:それに、圧倒的に男性が多くてほぼ男子校でした。

矢野:女性は、4人しかいなかったんですよ。

勝沼:浪人して入学した人たちは、デザインについてのベースができている感じで、現役で何も分からない状態で入った僕は、もう目の前の課題に向き合うのに精一杯で、まったく余裕がなくて、出来は良くなかったです。

安次富:現役だったからできなかったというよりも、ちょっと出遅れたということでしょうね。

勝沼:はい。逆に、純粋に目の前の課題を必死でやるので、変なバイアスもなく、吸収できたのかなとは思っています。

安次富:一番記憶に残っている課題は何ですか?

勝沼:平野拓夫先生のカラーリングの課題です。色を分解してレイアウトするんですけど、できたと思って先生のところに持っていくと、「OKリピート」と言われて、「どっちなんだよ」って感じで、結局リピートなんですけど、それで何回も徹夜してやり直して、ようやくOKって言われたとき、ホントに「ああ、助かったなあ」と思って。

安次富:1年生の名物課題ですね。少し解説すると、色環を1枚1枚、1色ずつ全部色を起こすんです。1色でも間違っているとやり直しなので、その課題のときは、部屋の中が絵の具皿で埋まってしまうような厳しい課題です。

勝沼:非常に厳しかったですね。

自分の強みを生かした作品づくりへの目覚め。
チームマネジメントの難しさを学んだ卒業制作。

安次富:石井さんはどうですか。超目立っていたという話ですけど。

石井:僕も、美大に行こうと思ったのは一浪が決まった後で、慌ててやり始めたので、スキルがあまりなくて。特に1、2年のときは、彫刻的なアプローチだったり、段ボールで椅子をつくるというような基礎造形力が問われる課題だったりしたので、もう全然ダメでしたね。僕は、だいたいハンズに行ってカッコよさげな素材を買ってきて、それを組み合わせてコンセプトを表現することしか考えていませんでした(笑)。

安次富:ちょっとそれは反則っぽいな。

石井:スキルがないから、そうやって乗り切ってきたんです。ただ3年生のときに、違ったデザイン言語を組み合わせて1つのプロダクトを作る課題が出て、たとえば、アバンギャルドとハイテックを組み合わせるみたいな。

安次富:どなたの課題ですか?

石井:大島先生かな。僕は文学部に行こうと思っていたから、文章やコンセプト他の学生より上手に表現できる。だから、課題をよく理解した上で、かなりコンセプチュアルなプレゼンしたらとても受けちゃって、それで3年生のときだけは、成績が良かったんです。あと、光の課題というのがあって、それもハンズで買ってきた素材やシートをブラックライトを使っていろんな実験をして、光のレイヤーを作って、ちょっと大きいオブジェを作ったんです。講評の時は音楽を流して、詩とビジュアルと共に光のモーションを見せたら、それが先生に非常に受けまして。そのあたりが、僕の多摩美のプロダクトの中でピークでしたね。

安次富:4年生は卒業制作だけでしょ。

石井:卒制では、そんな経緯もあって先生から、お前がリーダーだって言われて、チームリーダーになっちゃったんです。他のメンバーのデザインを一緒に考えたり、統合的なコンセプトを創ったり、スケジュール管理もしないといけないじゃないですか。最後は、自分の制作が圧迫されちゃって提出もクオリティもギリギリでした。就職決まっているのに、卒業できないかもしれないぐらいダメダメで。でも、そこでチームマネジメントの重要性を学びました。会社に入ってからも、今でも自分がリーダーになるチームプロジェクトには常に危機感をもって細心の注意を払って進めています。

絶対に戻りたくないと思うほど、厳しく必死だった4年間。
印象的だった宇宙空間でのプロダクトづくりという課題。

安次富:矢野さんは真面目だったんでしょうね。

矢野:いや。女性が4人しかいないっていうのは、ちょっと想定外で、驚愕でしたね。実は、私も石井さんと一緒で手が動かないので、とにかく4年間、ハンズマンにお世話になっていて、卒制のときは、その4年間つくってくれていたハンズマンが、奥さんを連れて見に来てくれたというぐらいで。

安次富:ハンズにお世話になったんですか。

矢野:ハンズにお世話になりました。アルバイトを一生懸命やって、お金で解決するっていう感じです。

安次富:すごいですね。自分ではつくらないで、ハンズマンというのは。

矢野:そんなふうにぐうたらなわりには、プレゼンをすごく大事にしていたんです。とにかく自分の作品をどうやって美しく撮るか、プレゼンを美しく演出するかが大事でした。だから、教授にプレゼンするときに、どんなお洋服を着ていくかとか。それは自分がプレゼンの一部だからみたいな。すみません、ちょっと妄想癖があるんですけどね。そんなことで、ものすごく身なりには気を遣っていたバカな学生でした。

安次富:特に記憶に残っている課題はありますか。

矢野:大変さで言うと、溝引き千本。

安次富:これも平野先生ですね。

矢野:そうですね。周りの女の子が、鼻水出しながら、泣きながらやっていて、その鼻水とか涙が溝引きのところにポチャッと落ちて、「はい、リピート」って言われている感じが忘れられないです。私も4年間必死だったので、人生の中でどこでもドアがあったら、あの4年間には、絶対戻りたくないって思うくらいです。誰かが落ちて、誰かが落ちてくるっていう、玉突き状態みたいな感じだったじゃないですか。正規に4年間で卒業できる人は半分しかいなくて。

木村:最後は、全然知らない人と卒業するんですよね。

矢野:そうそう。

安次富:ちょっと解説すると、たとえば、講評会に5分でも遅れると、もうそこで終わりとか、卒業制作も提出場所が決まっていて、ぴったりの時間で鍵閉められちゃって、それでもう留年とか。今では考えられませんが、とても厳しかったですね。

矢野:でも、私が印象に残っているのは、宇宙空間でのプロダクトをつくれという課題です。無重力状態の暮らしの中で、どういうプロダクトをつくるかっていう。自分の中では苦手なんですけど、宇宙での無重力の状態を調べなきゃいけないとか、そういうときに人間の身体はどうなっていくかとか、想像しながら未来のプロダクトをつくるというのは、すごく印象深くて面白かったです。

安次富:あれは、今までいうJAXAが絡んでいるので、本格的にやってたんですよ。いいですね。

自己確立に向かい、反抗的だった多摩美時代。
「このままじゃ大失敗する」という先生からの言葉が心に残って。

安次富:木村さんは、どうですか?

木村:当時は、大島先生、怖かったんです。なんか機嫌悪いし、直されるし、なんかいっぱい言われるし、みんながビビってたんですよ。でも、僕ははっきり言ってビビってなかったんです。「え、なんすか?」「やんないですよ、そんなの」みたいな、ちょっと若気のいたりで逆らい系な感じでずっとやっていて、ちっとも言うこと聞かないわけですよ。大島先生からしたら、イライラするじゃないですか。卒業制作のときに、大島先生がついに切れて、「お前本当にいい加減にしろ。このままお前が社会人になったら間違いなく大失敗する。だから、なんとしても卒業する前に、俺はそれを教えておきたい。頼むから、会社に入ったら、ちゃんと上司の言うことを聞け」って言われたんですよ。僕はそれが忘れられないです。皆さんも、今そうだと思うけれど、自分を立てるときってあるじゃないですか。自信もあるんだけど何か分からなくて、とにかく人の言うことを聞きたくなくて、自分の表現を追求したくなるというときがあって、それがまさに僕は、多摩美時代だったと思うんです。

安次富:卒制は何をやったんですか?

木村:卒制は、組み立て遊具みたいなやつで、メーカーにいろいろ聞きに行ったり、幼稚園に通って立体を作って、実際に子ども遊ばせて検証したりしていました。そういう中で、今話したような大島先生とのやりとりがあって、すごく学びました。後に自分が会社に入ってチームをつくったら、同じように、多摩美の卒業生に、いっぱいかみつかれるわけですよ。そのときに、俺もかみついていたなと思いながら、いろいろ分かってきて、ためになったなと感じましたね。