きょうはまず、前回を踏まえて話を始めようかと思います。前回の中村先生が、多摩美のやきものの教育で、教師として最も重要と考えているのが、何を基礎としてとらえるか、ということだ――それを考える要因は、[1]
現状への批評、[2] 時代をどう読むか、[3] どのように存在させられるか、もしくは、存在させる意味があるか、の3点について話されました。ここで面白いと思ったのが、この3点を実践する現在行われているカリキュラムが30年前のカリキュラムと表題としてはそれほど変わりないということなんです。じゃあ、何も変化していないかというと、そうではないと思うんです。
表向きは変化していないけれども、この間の教員の変化もあるし、学生の反応の違いや社会の変化もあるし、それぞれがお互い刺激しあいながら活性化して変わり続けている。そこに30年間続いてきた有効性があるんだということを、改めて感じました。大事なのは、そういうやり取りだ、ということがよくよく実感としてつかめました。学生と教員、学生どうしの授業のなかでのやり取りが、大きなウエイトを占めているわけです。もうひとつは、教え込まないということ。あるモデルがあって、工芸はこういうものですよというように教え込むことを、いっさいされてこなかった、これも大きな要因だと思います。
僕が中村先生にお会いしたのは20年ほど前です。僕は油画科の学生で、陶芸を専攻しようと思ったときの先生が中村先生です。以来こちらとしては、繰り出される先生のハードパンチを何とかかい潜りながら、自分のことを見つけようとしてきたと思うんです。にもかかわらず前回、中村先生のお話を聞いたときに、ボディブローのように体に染み込んでいて、自分の考えの多くの部分、考える姿勢とか、ものに関わる姿勢について、いちばん大きく影響を受けているのだなと。教え込まれないことで、考えたり、つくったりする力をつけられたことや、教員と学生がお互い変化しながら旺盛にやり取りをすることが、今後とも続いて有効に機能するのではないかあと立場が変わった今感じています。ただ、批評性とか批判性から始まった中村先生のアンチな態度とは、どこが違うのか、近ごろ学生とかかわりながら考えていることを図を使ってお話します。
図1は横軸として左に「表現」と「自律」を、右に「他律」とか「実用」――例えばデザインや、他の人のことを考えるという――が対極になった軸です。もうひとつの軸は、縦軸として下に「手」―つくり手の手、自分がつくる手を置き、上に「他者の手」の軸です。機械とか誰かに頼んでつくってもらうということ、量産陶器などは、後者になります。大きく考えると、器は横軸右の実用と縦軸つくり手の手に寄った図の右下よりになると思います。じゃあ多摩美の陶はというと、表現主体、自律性ということで、なおかつ人に頼まない、自分の手を使ってやってみようとしているので、図の左下に寄ったあたり、仮に円にしてみました。じつは、この図を考えるきっかけになったのは、分類分けをしようと思ったのではなく、多くの学生が自分たちの仕事、制作に、やきものでやる理由がどれほどあるのかと思い迷うことがよくあるからなんです。
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