初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
042
ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット
建造中のネルソン提督碑、トラファルガー広場、ロンドン(図22)

最初の公的な発表は、英国学士院、王立協会、ならびにフランス科学アカデミーに対して、1月の末と2月に行われ、関心をもって受けとめられた。科学界やタルボットの周辺の一族、友人らのサークル内では幾名かの人々のあいだに小さな興奮の嵐が巻き起こった。しかし細部の表現に優れたダゲレオタイプの迫真性と比較した時、こちらの画像には紙という支持体に特有のテクスチャーが入り込んでくることになる。タルボットはこれを「レンブラント調」の効果と称したのだが、まさにそうした粗く明瞭さに欠ける画質ゆえに、それは広範囲にアピールすることができなかったのである。初めの段階でもうひとつ不利だったのは、必要とされる露光時間の長さという点だった。この時点でタルボットはまだ、潜像の現像処理を行う可能性を発見しておらず、一方ダゲールは、ある偶然からその処理方法を見出していた。それは、露光後の原板や紙を化学溶液(現像液)で処理することにより、目に見えない状態にあった像を浮かびあがらせるというもので、タルボットは1840年の秋になってこれを発見した。すると快晴の下で約30分を要していた露光時間が30秒ほどに短縮された。肖像の撮影がこれで可能になったし、ロンドンの眺めを発明者本人が撮影している初期の一点(図22)に見られるように、主題や天候状態の選択の幅も広がった。1841年、タルボットは最初の特許を取得した11〕。
その際には、生み出された画像をカロタイプという語で記述しており、タルボタイプという別称も用いている。この特許取得が、以後10年間にわたり、イギリスでの写真術をめぐる科学上・芸術上の取り組みを商業権益の諸問題とかかずらわせてしまうそもそもの要因となった。カロタイプ技法の関連で彼が所有した4種類の特許をめぐり、タルボットが非妥協的な姿勢に終始したため写真術の発展が妨げられてしまったという非難が、彼の生前にも、没後にも云々された。批判者たちの指摘するところでは、彼は自らの特許権を1841年から1851年までに生じた写真技術の進展すべてをカヴァーするものと見なしていて、その中には他の人間による貢献、特にハーシェルが停止液としてチオ硫酸ナトリウム・ソーダの使用を提唱したことをも含めていたという。だがタルボットの伝記を執筆したH.J.P.アーノルドは、特許文書を子細に読むと、それが保護しているのは化学薬品の内容というよりむしろ、材料を利用していく方法自体だったと記している。タルボット自身も、発明の特許取得から生じるモラル上・実践上の影響についての論争に巻き込まれ、この世紀の中頃からイギリス人を悩ませていたディレンマにとらえられている。ある者は特許料が高すぎる上に規定があまりに日愛昧だと主張したし、別の者は、発明とは「個人に属する以上に社会の進歩によってもたらされたもの」Kだから、特許など守りようがないのだと論じた。タルボットもそれらの意見に同意するところがあったかもしれない。しかし、彼は自分の技法の特許権を取得したのである。同時代のイギリス、フランス、アメリカの多くの人たちと同様に、彼もまた、それ相当の努力を傾けた者はその才能や勤勉ぶりに見合う物質的報酬を受けるべきだと考えたのだった。結果として経済的利益を受けるとし巧ことがなかったのは、彼がビジネスには無関心で、知的な諸々のテーマの方に抑え難い興味を寄せていたことr領地からの収入に頼れたため、こうした態度が強まった一のせいだった。カロタイプを個人の楽しみとして実践していくようなアマチュア写真のうねりや、この技法を利用した肖像撮影の商業化も実現しなかった。カロタイプの制作を行った富裕層の人々としては、タルボット夫人のコンスタンス、彼のウェールズの親戚エマおよびジョン・ディル
ウィン・リューウェリン、二人の友人力ルヴアート・リチャード・ジョーンズ師、ジョージ・W.ブリッジズがいた。友人の二人はいずれもカロタイプで国外旅行の記録をつくることを着想している(第3章を参照)。紙の写真術がもっと意義深い反応を引き出すことになったのは、特許認可の手続きを必要としなかったスコットランドにおいてだった。優れた科学者でタルボットと頻繁に文通していたデイヴィッド・ブルースター卿の助力によって、カロタイプの技術を身につけたスコットランド人薬剤師ロバート・アダムソンは、1841年にエディンバラでスタジオを開いた。そして2年後、彼と画家でリトグラフも手がけたデイヴィッド・オタタヴィアス・ヒルとのカロタイプ制作が行われはじめる。彼らが撮影したのは主に肖像で(第2章を参照)、今日でもこの表現媒体を使った作品のうちもっとも表現力に富んだもののひとつとして評価されている。自分の発見を商業的に展開させていくことにタルボットはそれほど熱心だったといえないが、この技法に潜む用途の広がりには鋭い関心を向けていた。助手として養成したニコラス・ヘンネマンに手配させてレディングに出版工房を設け、タルボットはそこで本や雑誌の挿画に写真印画を使う計画をすすめた。

042
ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット
開いた窓(図23)

1844年から46年までに順次刊行された『自然の鉛筆』は、タルボットによるテキストと画像を収めたもので、写真術の科学的・実用的な応用方法を説き、図解してみせる最初の出版物となった。収録図版のひとつ《開いた扉》(図23)について、あるイギリスの雑誌は、特にその厚みのある調子表現、逐語的な正確さ、「人間の手で描かれたものを無効にするほどの顕微鏡的な仕上がり」をほめ讃えている。タルボットは写真術の第一の意義を、事実の視覚的証拠を提供できるというところに見ていた。しかし《開いた扉》をタルボットの母親が「ほうきのひとりごと」と名づけていたことにもうかがわれるように、彼は身近な事柄を芸術的に取り扱うことにも興味を息づかせていたのである。このような主題のもと、光と影がつつましい一情景をピクチャレスクに染めあげていくさまに注意を傾けているあたりに、彼が17世紀オランダの風俗画などに親しんでいたことがうかがわれる。その種の絵画作品は、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは非常に好まれていたようで、『自然の鉛筆』の文中でも特別に言及されている。これと似たスタイルのカロタイプ画像は他にも撮られており、絵筆をふるう能力のない者にも写真術は芸術的な表現のための手段を与えるというタルボットの確信を証するものとなっている。タルボットの出版物としては、他に『スコットランドの太陽画』があり、1844年制作の23点の写真が収められている。また『スペイン芸術家年鑑』は、写真術を芸術作品の複製のために利用した最初の本となった。ところが、レディングの工房は1848年に閉じられてしまう。大規模な写真印画事業を運営していく上での、経済面・技術面の難題がふりかかってきたためだった。カロタイプの画像が消え去りやすいものだったことも、理由として見逃せなかった。画像の不安定さは、それからの25年間を通じて、紙印画をつくろうとする写真家たちを困惑させつづけたのである。フランスではダゲレオタイプが一般民衆を魅了しつづけていたが、一方でカロタイプに大きな関心を寄せるアーティストたちもあらわれた。彼らの見るところでは、紙を用いる技法は情趣のあるイメージをもたらすなど、選択の幅を大きく広げるものであった。視野の設定、ポーズ、ライティングータゲレオタイピストになし得る美学上の決定はそれだけである一に加えて、カロクイピストの場合には同じネガをもとに、そこからプリントをつくる過程で解釈上の判断を働かせることができた。明暗や色調をめぐる美学的な決定は、感光剤や調色液の塗布の仕方、紙自体の選び方によっても行えるし、それらとは別にネガ(またはプリント)に修整を施して画像の外観を改めることもできた。このような側面で、紙を用いる技法はエッチング、エングレーヴィングで伝統的に行われてきた手法を想起させたのであり、写真術を創造的に追求することに関心をもつ人々のあいだでカロタイプヘの評価を高めることにつながった。

[タルボット・プロフィール]
[ダゲール・プロフィール]