―多摩美から教授就任のオファーが来たとき、それぞれどのようなお気持ちで受けられましたか?
- 野田
- 僕は今、東京芸術劇場の芸術監督もやっているのですが、その話と多摩美の教授就任の話をいただいたのが、ちょうど同じ時期だったんです。それまでは、自分が主宰しているNODA・MAP以外の人たちとは、ほとんど付き合いがないまま生きてきたのですが、もう少し外の人たちとも接していかないとダメかなと思っていたときだったので、両方とも引き受けようと思って、就任することを決めたんです。
—外の人たちと接したいと思った理由とは、具体的にどのようなものだったのですか?
- 野田
- たとえば芝居を作るときに、若い役者に出会いますよね。そこで「この役者はどうしてこういうやり方しかできないんだろう?」と疑問に感じることがあったんです。でもそのときは、若い人たちと継続的に接していなかったから理由を聞いたことも、その気持ちを伝えたこともない。だから、ちゃんと会って話をしたほうがいいんじゃないかと思ったんですよ。
—なるほど。勅使川原さんはいかがですか?
- 勅使川原
- 僕は最近ダンスを見る事があまりありませんが、今の時代の身体性はどうかという事には関心があります。30年近く前から僕は創作を始めると同時に一般向けのワークショップを開き多くの若者と出会ってきました。ワークショップを開いた理由は、作品以前にやるべき事、つまり技術訓練や考える事を若いうちに経験する重要性を伝えたかったからです。僕は美術家になりたいと思っていたけど、ある時に自分の身体自体に可能性を感じてダンスを始めたんです。既成のダンスに魅力を感じてダンスを始めたのではない。僕は人間が知らない状態から感じ取ってゆく驚きに関心があります。だから若い人たちにも全然期待していません。流行や既成概念にとらわれずに勝手にやったらいいと思う。
- 一同
- (笑)。
- 勅使川原
- でも真剣にね。まあ、もう少しちゃんと説明すると、お互いに何も知らないままでいい、何もわかっていなくていいと思うんです。むしろ「わからないまま、手ぶらで来たほうがいいよ」と言いたいですね。わかったつもりで来られたら、時間が無駄に過ぎる。僕の教え方の場合、必ず途中で全部の価値観をひっくり返さなきゃいけなくなるから。
- 野田
- 「わからないまま、手ぶらで来たほうがいい」というのは、至言ですね。
- 勅使川原
- 僕のダンスメソッドは、呼吸という日常的に当たり前と思っている事を重要な基礎にします。呼吸と身体、呼吸と動き、呼吸と音楽とその関係は広がります。人それぞれ、ダンサー自身があらためて身体を通して感じていかないと意味がないと思っています。そしてそれは、(旧来のダンスの)システムに頼っていないということで、独特です。でも、僕はそもそも、日本にダンスのシステムがあるなんて信じていません。
—もう少し、具体的にお伺いしてもよろしいですか?
- 勅使川原
- 普段、ヨーロッパで仕事をさせていただく機会が多いのですが、あちらはダンスの世界の教育からプロディースまでシステムが存在しています。一方、日本は劇場の上演形式ですら、ほとんど確立されていないように感じます。でも、それは逆に日本独自の、いわゆる「プロフェッショナル」という言葉が出てこない良さでもあると思います。しかし逆に、大人に成れない甘さもあるようです。
—野田さんは、学生時代に立ち上げた劇団から、そのままプロになられましたよね。
- 野田
- 日本の演劇界も、実は学生劇団によってかなりの部分が作られてきたという、世界的に見ても類のない歴史があるんです。役者も演出家も劇作家も、また劇団の数も層の厚さも、その多くの部分が学生劇団から生まれているんですよね。そして、それは必ずしも恥じるべきことではなくて、理想を言うなら、多摩美の学生の中から、仲間と共に、何か勝手に新しいものを作りだして、文化を発信できるようなグループや個人が出てくれば、それが一番いいことなんだと思っています。
—お2人のお話を聞いていると、若い方にすごく可能性を感じていらっしゃるように感じます。
- 野田
- 何を教えられるか、どんなふうに伝えるかということは人それぞれだけど、若い世代に向き合っていこうと考える節目って、人生において誰しもあるんじゃないですかね。僕が多摩美で教えることになったと聞いて、柄本明さんが「学生たちと話をしてみたい」とわざわざ連絡をくれたんです。こちらとしては願ったり叶ったりだったので、「ぜひ!」と講師をお願いしたんですけど、やっぱりそれなりにみんな感じていることがあるんじゃないでしょうか。
- 勅使川原
- 感じていると思いますよ。だって、若い人がどんどん出てきてくれないとつまらないですよね、「ダンスの世界」が、というより「人間全体」が(笑)。
- 野田
- そう、あとの世界は誰でもない、若い人たちが作るんだから。
- 勅使川原
- やってもらわないと。生意気なヤツが出てきてくれないとつまらない。
- 野田
- でも、生意気な若者ってなかなかいないんですよ。海外の若い俳優やアーティストたちと話していると、表現者として自分も同じ場所にいるという物言いをしますよね、相手がどんなキャリアの演出家であっても。でも日本は、先生・学生という上下の関係性が染みついている人が多い。「待ち」の姿勢が基本にあるんですね。
- 勅使川原
- 若い人たちが上手くできるかどうか、僕らはそんなに気にしませんよね。それより、何を考えているのかに興味がある。
—日本の若者が内向きになっていると言われています。海外旅行や留学経験が減っていたりとか……。お2人は海外でもご活躍されていらっしゃいますが、その経験から若い人たちに何か伝えられることはありますか?
- 野田
- やたら外側に向けて大声で自分をアピールする必要はないとは思います。海外に出れたら何でもいいかといえばそうでもないし。ずーっと内側を向いていたとしても、そこから独自の表現が生まれればいいわけで。そこでオリジナルで強いものが生まれると、そのまま海外でも通用したりしますからね。
- 勅使川原
- 海外へ行こうが行くまいが、まず表現できる技術がなければだめです。野田さんは独自の表現を目指した。そこにはそれなりの技術があるはずです。徹底した基礎技術が独得の内面性を表に出すことができると僕は考えていて、似たような物がごろごろあっても面白くない。表現はその人の考えな訳ですから、若い新しい表現、強い表現、不確かな表現でも、独自の価値があれば、キャリア、国籍は問題ではないです。
- 野田
- 内向きなのに、流行を意識しているというのが1番困るんです(笑)。
- 勅使川原
- そういう意味では、怖さを感じていなきゃダメ。怖さというのは、批評精神と言ったら固く聞こえるかもしれないけど、自分自身に対しても「本当にそれでいいのか?」と問い続けることは常に必要ですね。
- 野田
- 批評精神は、特に若い人には大事だと思います。今、日本社会全体が自己愛の時代になりつつあるのを感じています。話している言葉を聞いていても「ほら、自分ってこういうヒトじゃないですか?」なんて当たり前のように言う。「お前のことをそんなに知ってるやつはいねえんだよ!」と言いたくなります(笑)。少なくとも表現者としてやっていきたいのなら、それは絶対に通じない。自分自身に対して批評精神をどれくらい持っているか、自分を笑える、もう1人の自分を持っている人じゃないと。
- 勅使川原
- 今の話を、別の言葉に置き換えるなら皮肉、アイロニーですよね。難しいことですけど、表現にはそれが必要です。アイロニーをたとえるなら、表で聞こえるメロディーの裏で鳴っている音というのかな。聴こえない人もいるんですよ。でも聴こえる人に対しては、何がそれを鳴らせているのかとか、いろいろ考えさせられるものです。野田さんの芝居もそういうところがあるのではないですか、聞こえてくるセリフの内容ばかりじゃないでしょ? 表わしたい事は。
- 野田
- セリフにしたことばかりが、物語やテーマだと思われがちですけど、必ずしもそうじゃない。
- 勅使川原
- 表現の裏にアイロニーが入っていなければ、良い芝居にはならないんですよ。ダンスもそうです。動けばいいってもんじゃない。「◯◯ならいいってもんじゃない」というのは、芯がなければ言えないことです。それぐらいの芯の力がないと、権力であったり規制であったり、目に見えない大きなものには立ち向かえませんね。
—今回新設される演劇舞踊デザイン学科では、パフォーマーだけでなく、舞台美術についても学べる「劇場美術デザインコース」が用意されています。勅使川原さんはパフォーマンスや振付だけでなく、舞台美術もご自分でやっているんですよね?
- 勅使川原
- はい。舞台美術や照明も自分でやっていますね。野田さんは脚本を書きながら舞台上の装置も同時にイメージされるんですか? それともまず、脚本を書き終えることに専念する?
- 野田
- 書きながら、なんとなく浮かんではいるんですけど、作家が頭の中で描く舞台美術ってご都合主義なんですよね(笑)。あとから考えると、矛盾している箇所がいくつも出てくる。そのアイデアを舞台美術家と相談して取捨選択するんです。
- 勅使川原
- イメージはこんな感じだと伝えていくわけですね。
- 野田
- 脚本のト書きにはっきり書くときもありますね。でも、舞台美術家によってはズバッと無視されることもあるんです(笑)。もちろん、舞台美術家が出してきたプランを、僕が「これは違う」と却下する場合もあって、ケースバイケースなんですけど。勅使川原さんは、ご自分で振付するダンス公演だけでなく、オペラの演出したときも美術を担当されていましたよね?
- 勅使川原
- 僕は美術は全て自分でデザインしてきました。美術は照明のためだけに存在するという場合もあるし、美術とダンサーと照明の関係は無限のパターンがある。振付や演出をする自分とは違う回路があって、作品を客観的に見ながら作っています。他の舞台美術家に頼むと、ケンカになったりしませんか? 僕は随分以前に一度アイディアだけ出して、その後のチェックをきちんとやらなかったことがあり、ああダメダこりゃ!やり過ぎって(笑)。
- 野田
- わかります。「またあいつ、余計なもん作りやがって」とか言いながらやっていること、ありますから(笑)。
- 勅使川原
- でも、美術制作の立場として、それはありうると思います。そのときにどうやってせめぎ合うか、委託する側が試されているともいえますよね。「ここはもっと削ってもいいんだ」と自信を持って言えるように。
- 野田
- たぶんそこは、勅使川原さんと僕の違うところです。勅使川原さんは美術的な才能があるから、最終的な色や素材の選択といったことができる。だから完全にイニシアチブを取れると思うんですけど、僕が舞台美術家がいてくれて良かったなと度々思うのは「また余計なものを……」と思いつつも(笑)、色なり素材なりに関して「こういうものがあるよ」という知識を教えてもらえることが多いんですよね。そうすると「ああ、プロフェッショナルだな」と。
- 勅使川原
- そういう意味では、演劇やダンスを勉強する学生と、舞台美術を勉強する学生が同じ学科になるというのは、かなりの刺激になるんじゃないですかね。型にはまった知識や技術を持っていない学生が、たまたま「こんな美術をやりたい、こういうデザインを作りたい」と考えて、それがパフォーマンスの刺激になるということもあるかもしれない。
- 野田
- 僕は、舞台美術家の人って、最終的に演出をしたくなるんじゃないかなって、ときどき思うんです。勅使川原さんの話じゃないですけど、空間に興味があるということは、演出とか、照明にこだわりたくなるんじゃないかなって。だとしたら、同じ場所で勉強するのは自然なことだと思う。
- 勅使川原
- それだけ、この学科は総合的ということですね。でもよくよく考えたらこの学科、舞台業界としては、すごいことだと思いますよ。僕、ダンスをやり始めて間もない頃、劇場にヒエラルキーがあることを知ったんです。コンサートとかオペラとか演劇とかそれぞれ微妙に違うけど、ここは照明さんが1番偉いとか、ここは大道具さんだなとか(笑)、すごく権力構造がある場所だと感じたんです。この学科の存在は、それを「崩しちゃえ」ということになりませんか?
—たしかに、そう言われるとかなり挑戦的な試みなのかもしれませんね(笑)。
- 野田
- 多摩美の特殊性として、もともと美大だから、舞台芸術にまったく関心なく入学した学生の中で、ここで舞台美術を作ってみたいと思う人が偶然出てくる可能性がある。そういうのもすごくいいと思いますね。
- 勅使川原
- そうですよね。舞台美術を勉強しているのに、俳優やダンサーに向かって「俺のほうが面白いよ」と言う学生が出てきたら面白い。
- 野田
- そして本当にパフォーマーになっていったら最高(笑)。それでいいんですよ。究極的なことを言ってしまえば、一番欲しいのは才能だもの。
- 勅使川原
- 才能が2つ3つ集まると必ずぶつかる。そうなると絶対に面白くなる。最終的に大学は、そのための場を作っているんだと僕は思います。