NEC 、ソニー、積水ハウス、パナソニックのデザイントップの卒業生による特別講義を開催しました
11月8日に八王子キャンパスのレクチャーホールにて、多摩美のプロダクトデザイン専攻を卒業され、現在、企業のデザインセクションを率いているトップクリエイター4名(NEC 勝沼潤さん、ソニーグループ株式会社 石井大輔さん、積水ハウス株式会社 矢野直子さん、パナソニック株式会社 木村博光さん)をお招きし、安次富隆教授(プロダクトデザイン)を司会にトークセッション「デザイントップ対談 私たちの 過去・現在・未来」を開催いたしました。その模様をご紹介いたします。
安次富:登壇されている方々は、私も含めてみんな多摩美のプロダクト出身です。それぞれが、NEC、ソニー、積水ハウス、パナソニックのデザインのトップを務められています。今日は4人の方に、「過去」「現在」「未来」をテーマにお話いただきたいと思っています。まず自己紹介として、一押しの写真を選んでいただき、お話していただきます。

オープニング(出席者の自己紹介)
デザインの拡張に対応したキャリアを経て
今、企業におけるデザインの活用を提言し、デザイン部門を統括。

勝沼潤さん
日本電気株式会社(NEC) コーポレートエグゼクティブ チーフデザインオフィサー
(89年プロダクトデザイン卒業)

勝沼:今、我々が手がけているデザインのカテゴリーを1枚にまとめました。これを見ると、「あれ?プロダクトは?」と思いませんか。当然、プロダクトのデザインも存在していますが、幅広い領域のデザインに携わっていることが、見てとれると思います。
左上は、NECの森田社長で、企業トップのメッセージやコーポレートから発信するメッセージのコミュニケーションデザインも手がけていると。真ん中は、この5月にNECが発表した「BluStellar(ブルーステラ)」というDXのブランドで、ここはマーケティングコミュニケーションのデザインやブランディング。右側は、NECはテクノロジーの会社で世界一の顔認証技術を持っていて、その技術を活用した入館ゲートのプロダクト及びソリューションのデザインと。一番下が、ファンデーションのデザイン、基盤のデザインということで、コーポレートのVI(※)やブランドの考え方の浸透、企業の文化づくりをやっていますと。プロダクトデザイン出身の僕がカバーするには、だいぶ幅広いテリトリーですが、これは、最近言われているデザインの拡張が反映されている結果だと思います。 僕自身、どうしてこれができているのかを考えてみました。
僕は多摩美を卒業した後、NECグループでデザインを生業にする会社(NECデザイン)に入社して、当時はコンシューマー向けのプロダクト、携帯電話やパーソナルコンピューターのプロダクトのデザインをやっていました。その後、ソニーに転職して、ホームプロダクツやモバイルプロダクツのデザインをやっていました。その後は自分でスタジオをつくって、いろいろな企業の幅広いクリエイティブ活動をやっていました。2020年にNECから請われて、こちらに戻りました。そこから、僕がそれまでのキャリアで培ってきたデザインの幅広いケーパビリティ(※)を活用して、BtoBのコングロマリッド企業(※)であるNECにおいて、どのようにデザインの力を活用できるかを提言させていただき、結果、これらのカテゴリーを僕が統括し、チーフデザインオフィサーとしてデザイン部門、ブランディング部門、コミュニケーション部門の統括を、今やらせていただいています。
※VI(ビジュアル・アイデンティティ)・・・企業やブランドの価値やコンセプトを視覚的に表現するデザイン要素の総称
※ケイパビリティ(capability)・・・一般的には「能力」「才能」「可能性」などを意味する言葉。
※コングロマリット企業・・・異なる業種や産業の複数の企業が経営統合して1つの大きな企業グループを形成している企業
過去から今へ。人生の中の4つの数字。
アニメーターや映画監督を目指し、偶然にも導かれてプロダクトデザイナーに。

石井大輔さん
ソニーグループ株式会社 クリエイティブセンター センター長
ソニー・ホンダモビリティ株式会社 デザイン&ブランド戦略部 ヘッド
(92年プロダクトデザイン卒業)

石井:今日はスライド一枚で自分を語れということだったので、この4つの数字でお話したいと思います。
まず「92」。92年のプロダクトデザイン卒です。1969年生まれなので、皆さんのお父さんやお母さんの世代に近いと思います。この世代にありがちですが、アニメと特撮とSFに浸って育ちました。小さい頃から、アルプスの少女ハイジ、仮面ライダーやウルトラマン、小中学校の頃は、ガンダムのファーストや松本零士さんの作品などに影響を受けてきました。
次の「4」。僕は4ヶ国に住んだことがあって、それが自分のアイデンティティーや、今につながっていると思っています。東京で生まれましたが、父親の仕事の都合でタイのバンコクに行って、2歳くらいまでそこで育っています。日本に帰ってきて下北沢、その後、小学校の前半は、ドイツのデュッセルドルフにいました。日本人学校に通っていたので、ドイツ語は全く話せないんですが、そのとき持っていた、アディダスやプーマなどのスポーツ系のブランディングがかっこよかったのを覚えています。あと、飛行場で見るルフトハンザのデザイン、今でいうCI(Corporate Identity)がすごくかっこよかったんですよね。日本に帰ってくると、もともと好きだったアニメ、SFにどっぷり浸かりました。特に設定資料の世界感構築の図解が好きだったので、現在のプロダクトや空間デザインに通じるものがあると思います。会社に入って、イギリスに2回、赴任しましたが、そこで吸収したことも非常に多かったです。というのも、ヨーロッパのデザインセンターには、ドイツ人やイタリア人、フランス人、スペイン人、当然イギリス人もいましたが、そういう国籍の違うメンバーと一緒に仕事をすることは、すごいラーニングになったと思っています。日本人同士だと曖昧になりがちなことも、一つ一つきっちり説明することで、仕事上のコミュニケーションのやり方を学びました。
「1/8」。これは僕の大学の合格率で、計8学科受けましたが、1個しか受かっていません。その1つが、この多摩美のプロダクトです。現役の時は一般大学しか受けませんでした。というのも、最初はアニメーター、そこからSF映画の監督を志向していたのですが、いきなりそういう専門学科に行くより、押さえで、一般の文系の大学行こうぐらいな感じでした。結果、どこにも受からなくて、初めて人生の危機を感じ、真剣に何をやりたかったのか思い直し、美大に行く決心をしました。ただ、そのきっかけは、現役受験に失敗して、一般予備校の推薦入学の締め切り日に必要な印鑑を忘れて、入学できなかったことでした。めちゃめちゃ単純ですが、そこで「これは運命の啓示なんじゃないか?」思って、そこから美大受験に切り替え、デッサンに明け暮れました。映画や映像制作をやりたかったので、グラフィック系の学科を第一志望で受けたんですが、グラフィック系は全部落ちて、なぜか多摩美のプロダクトだけ唯一合格。でも当時、グラフィックの倍率が10倍で、プロダクトの倍率が30倍。二浪するか迷っていると、先生や友だちから「バカか、プロダクトに行けよ」と言われて。それが僕のデザイナー人生の始まりで、ある意味偶然、プロダクトデザイナーになったわけです。ただ、会社に入ったら、プロダクトの仕事は自分に非常にフィットしているなと思いました。というのも、学生の時は、手を動かして自分で制作しないといけないので、手先のスキルがあまりなかった自分は全然ダメだったんですが、会社入ったら、自分で手を動かすよりも、きちんと図面で表現することが重要だし、設計者や企画と問題解決にむけて話をすることでいい仕事ができることが分かって、そこで自分自身の仕事の仕方を覚えていったのだと思います。
最後「11」。60年以上続いているソニーグループのデザイン部門で、11人目のセンター長をやらせてもらっています。
最後に空間を仕上げるのはプロダクトだという思い。
プロダクトデザインの可能性は、家電や暮らしの商品、そして家へ。

矢野直子さん
積水ハウス株式会社 業務役員 R&D本部 デザイン設計部長
(93年プロダクトデザイン卒業)

矢野:私は、石井さんの1つ下の93年卒業です。石井さんは、こんなふうに言っているけれど、すっごい目立ってたんですよ。かっこいいし、いつもさっそうと歩いている先輩というイメージで。私は、叔父が建築をやっていて、空間を作る上で、最後に空間を仕上げるのがプロダクトだと思っていたので、とにかくプロダクトに行きたかったんです。現役ではプロダクトしか受けなかったんです、すっごい自信があって。なのに、一次で落ちるっていう、ものすごく恥ずかしい思いをして、奮起して一浪で入っております。
今言ったように、とにかく空間、暮らしっていうものが、私の根底にあると思っているので、卒業後は、良品計画という無印良品の商品開発をしている会社に入社しました。無印良品のものづくりや小屋を作ったりとか、最後はフィンランドのベンチャー企業と一緒に、自動運転バスの開発をやったりと、無印良品といえども、どうやって暮らしを豊かにするかを、すごく考えているブランドだったので、二十何年、さまざまなことをやってきました。その間に、夫の仕事の都合で会社を辞めなければいけなくて、スウェーデンに行ったんですが、石井さんと一緒で、スウェーデンに住んだことも、私の生活観を変えてくれた大きなきっかけだったと思います。
そして、4年前に積水ハウスに呼んでいただきました。ハウスメーカーには、なかなかデザイン室がないんですが、そこでデザイン設計部を立ち上げて、今、部長を拝命しています。もともと良品計画のデザイン室長をやっていたんですが、新たなステージとして、家をつくる、暮らしをつくるというところでの、デザイン設計部を立ち上げて、ちょうど今3年目になります。プロダクトといっても、家電のデザインもあれば、暮らしから最終的に小屋をつくって、今は家をつくっちゃってるんですけど、そういういろんな可能性があることを、今日はちょっとだけ知っていただければと思います。
非常に楽しかった多摩美時代を経て
活躍めざましい多摩美卒業生とともに、幅広く暮らしにまつわる商品デザインに。

木村博光さん
パナソニック株式会社 デザイン本部 本部長
(94年プロダクトデザイン卒業)

木村:私は94年卒です。私が1年生、矢野さん2年生、石井さん3年生と、勝沼さんはもう就職されていたかもしれません。先ほど矢野さんもおっしゃいましたけど、矢野さんも石井さんも、目立ってましたよ。僕らから見ると相当キラキラした先輩というか、おしゃれ番長みたいな感じで映っていましたが、そんな中で、私は比較的泥臭くやっていたと思います。入社して、カメラ系とか、コテコテのプロダクト、たぶん石井さんと思いきり競合してるんですが、打倒ハンディカムみたいな感じでやっていました。そこから、マネージャーの立場になってきて、ここも、ソニーさんと思いっきり競合で、プライベート・ビエラというモバイルのテレビをやったりして、最近は、家電群を担当してきたという経歴です。
ちょっと面白い写真も持ってこいと言われて、真面目に持ってきました。今日は濱田先生が来ると思って、濱田先生の写真を一生懸命探してきたんですが、わかります?濱田先生が一番右の真ん中で立っていて、前の左のいるのが私。真ん中の写真は、アクシスギャラリーで卒業制作展をやって、前二人、私と濱田先生が写っています。左下は、芸祭の写真で、金粉ショーということで、みんなで金粉を塗りまくって、前衛舞踏だと言いながら踊るという。こんなふうに、非常に楽しくやっていました。
多摩美を卒業して会社に入って、これも石井さんと同じ時期だと思いますが、ロンドンに駐在させていただいておりました。その中で、チームでどうクリエイティブしていくかをかなり学んで、現在にいたっています。
そういう経験を経て、もう少し暮らしにまつわる商品をやっていきました。1つのきっかけになったのが、ボディトリマーという商品です。実はこれは多摩美卒の杉山くんが担当したもので、これがきっかけになって、こういったモノフォルムの、非常に要素を削ぎ落としたものを、これからやっていこうと、いろんな取り組みをしてきました。 昨今、我々がやっているアイコニックなさまざまな商品があるので、それを高い次元で表現していこうと、昇華しているということです。この中には、卒業生の作品もたくさんあって、根岸さんや杉山さんなど数々の優秀な方が、実は多摩美から我々の会社でエースとして頑張ってくれているので、ぜひ今日はそのようなことも含めてお話できたらと思っています。