多摩美術大学の日本画教育は、前身である1929年創立の帝国美術学校において、「西洋画科」、「工芸図案科」と並ぶ3本柱の一つ、「日本画科」としてその歴史が始まりました。学内分裂を経て1935年に上野毛に開設された多摩帝国美術学校では、日本画家の安田靫彦(1884-1978)が特別顧問に迎えられ、官立の東京美術学校(現在の東京藝術大学)とは一線を画した多摩帝国美術学校の独自の個性を確立すべく、その影響力を発揮しました。 その後、激動の戦中戦後の変遷を経て、1953年に4年制大学に昇格し、現在に至ります。 加山又造が本学日本画専攻に着任したのは1963年のこと。当時、理事長を務めていた村田晴彦(1903-1975)の招聘によるものです。「自由」と「在野精神」を掲げ、各科の教授陣の強化と一新を図った村田理事長が加山を招聘したのは「近代日本画にはらむ伝統や因習、価値観からの脱皮を目指す思惑があったのではないか」と、DNA展実行委員長の木下京子教授は図録に掲載された論考の中で述べています。 横山操は村田理事長の命を受けた盟友・加山の勧誘により1965年に着任。以降二人は1973年4月1日に横山が他界するまでの7年6ヵ月の間、共に手を携え、多摩美の日本画教育に真摯に取り組みました。 加山又造は1927年、京都・西陣織の衣装図案職人の家に生まれました。京都市立美術工芸学校絵画科(現在の京都市立芸術大学)を修了後、東京美術学1966年頃の加山又造(写真左)と横山操04「現代日本画の系譜―タマビDNA」展では加山又造と横山操を現代日本画の旗手として捉え、本学日本画教育の中興の祖と位置付けました。この二人を起点に日本画の■タマビDNA』が生まれ、そこからさらにさまざまな表現に発展し、今もなお多種多様な作品を制作する作家が生まれ続けています。二人の足跡を追い、日本画専攻の最大の特徴といえる多様性の原点を振り返ります。「自由」と「在野精神」の多摩美へ因習にとらわれない二人の姿勢が新たな教育を生んだ日本画の概念を覆す画家として頭角を現す二人の情熱が日本画の潮流を変えた
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