TAMABI NEWS 95号(漫画という表現力)|多摩美術大学
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『Palepoli』より、自身の手のコピーを使ったという作品 90年油画卒の古屋兎丸さんによる特別講義が、9月8日に開催されました。大学のAホールには多くの学生が聴講に訪れ、立ち見がたくさん出るほどの超満席となりました。 特別講義は、古屋兎丸さんと、多摩美で「漫画文化論」を教える竹熊健太郎先生の対談形式で実施。8月発売の『古屋兎丸短篇集 1985年のソドム』の表題作で自叙伝的に描かれている創作活動のルーツや、多摩美時代のエピソードについて語っていただきました。漫画と出会い、アンダーグラウンドの文化にどんどんハマっていきました。『ライチ☆光クラブ』の原作になった東京グランギニョルの舞台を見たのもその頃です。さまざまな作品に感化され「自分も表現がしたい」と多摩美に進学。入学後もバイト代を注ぎ込んで、映画や演劇を死ぬほど観ました。そこで培われた作品に対する価値基準のようなものは、今の創作活動の下地になっています。『ライチ☆光クラブ』は、まさに80年代当時の雰囲気を閉じ込めるようにして、そのときの自分を喜ばせるつもりで描きました。当時のアンダーグラウンドな匂いは、いまだに自分に染みついている感覚があります。 多摩美時代には演劇やダンスにのめり込み、立体作品やインスタレーションといった表現活動をしていました。何がしたいのかはわからずとも、何かを表現したいというエネルギーだけは溢れていましたね。周りには僕のような学生がたくさんいて、思い切り表現活動ができました。また、李禹煥(リ・ウファン)先生や海老塚耕一先生の展覧会、東野芳明先生の講義の記憶は今も鮮明に残っています。アートを通して先生方の生き様を見せてもらえたことは、大きな刺激になりました。左から:『Palepoli』(太田出版)、『ライチ☆光クラブ』(太田出版)、『帝一の國』(集英社)、自伝的作品が収録された『1985年のソドム』(太田出版) 漫画家への思いが再燃したのは、大学卒業後の24歳のときです。当時は素材となる人工物をそのまま置くか組み合わせるかするような“もの派”に傾倒していました。でも手応えがないまま表現活動を続けるなかでふと「僕はもともと何が好きで美大に入ったんだっけ?」と考えたんです。そこで思い出したのが、子どもの頃から好きだった漫画でした。漫画なら単行本1冊くらい出せるかもしれないという思いで、その日から1日何時間も漫画を描き続ける生活が始まりました。 デビュー作の『Palepoli(パレポリ)』は、美大出身らしいアート的な技法や発想で勝負した作品であり、同時に“美大の呪縛”から解放される通過儀礼的な作品でもありました。アート的な手法を過剰に使ったのは、ポップで漫画らしい絵は描けない自分は、美術で勝負するしかないと思ったからです。加えて「紙にコマを割って物語を描くってどういう意多摩美で学んだもの派による表現への懐疑的な視点から、デビュー作『Palepoli(パレポリ)』のアート的な表現技法が生まれたという裏話も。 対談後の質疑応答では、学生の等身大の質問一つひとつに真摯に回答してくださった古屋先生。「多摩美にはどんな人や表現も温かく迎え入れてくれる環境があります。この4年間は恥ずかしがらずに、思い切り自分の表現を出し切ってもらえたらと思います」と学生への励ましの言葉で最後を締めくくりました。味?」と美大生特有のこじらせ方をしていたこともあり、漫画とは何かを漫画で問うものになりました。これは当時の自分だからこそ描けたものだと思います。 アート志向が強かったとはいえ、『Palepoli』で女神の女の子をかわいく描けた経験は、美少女が主人公の『ショートカッツ』の創作に繋がりました。デビューから今日まで一貫して、僕はそうやって作品を描きながら可能性を引き出し、描ける範囲を広げてきました。一方で、24歳から30年近くずっと漫画を描き続けてきた今、そろそろ自分を見つめ直す時期にあるのかなと感じています。これからは表現者としての終活も視野に入れながら、自分の生き方と作風に向き合っていくつもりです。1968年東京都生まれ。1994年に「月刊漫画ガロ」(青林堂)に掲載された『Palepoli(パレポリ)』で漫画家デビュー。独創的な作風や人間の暗部を描く作品が若者を中心に支持されている。代表作に『ライチ☆光クラブ』(太田出版)、『帝一の國』(集英社)、『女子高生に殺されたい』(新潮社)など。2023年9月8日「古屋兎丸 特別講義」開催古屋兎丸×竹熊健太郎 創作の原点や多摩美時代を語る03手応えのない表現活動の中で思い至ったのが好きな漫画

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