TAMABI NEWS 95号(漫画という表現力)|多摩美術大学
8/20

喜国雅彦、しゅりんぷ小林らと過ごした漫画部、第2の黎明期 僕が漫画を描き始めたのは3、4歳のときでした。父親が漫画好きで、家にあった手■治虫先生などの作品に影響を受けたんです。その後、絵画教室に通わせてもらったのですが、先生から「君の絵は漫画だ」と言われてしまい……(笑)。特にやりたいこともなかったので「漫画家になるしかないのかな」と考え、ひとまず芸術の知識を幅広く身につけようと多摩美に進みました。 当初、僕はバドミントン部に入っていました。美大の運動部ほど楽なものはないだろうと甘く考えていたのですが、そこでの練習が予想よりきつくて。そんなとき、漫画研究会(現 漫画部)が設立されるという校内放送が流れたんです。多摩美には以前も同様の研究会があったようなのですが潰れてしまったらしく、新たにつくられることになった。それで、「バドミントンもいいいけど、漫画も描きたい!」と放送を聞いてすぐに参加することを決めました。 僕が入学した1977年ごろは、ちょうど漫画が多様化の兆しを見せ始めた転換期でした。『ペンギンごはん』の湯村輝彦先生のように“ヘタうま”なタッチの漫画家も登場し、これなら自分にも面白い表現ができるんじゃないかと思えたんですよね。また、当時は広告産業が非常に盛んで、そちらの方面にも興味を持っていました。僕の中では漫画も広告も大きな違いはなく、ちょっと洒落ていて面白いことをやってみたいという気持ちでした。 漫画家の喜国雅彦は漫画研究会の同期で、しゅりんぷ小林などは先輩にあたります。後輩にはアートディレクターのサリー久保田やブックデザイナーの祖父江慎がいました。メンバーはプロ志向が強く、神矢みのるさんの上・下:『弥次喜多 in DEEP 1』(KADOKAWA)08漫画表現の転換期を仲間たちと過ごす漫画研究会(漫画部)は面白さを人と分かち合える場しりあがり寿-漫画家[81年グラフィックデザイン卒業]

元のページ  ../index.html#8

このブックを見る