日本画油画版画彫刻工芸グラフィックプロダクトテキスタイル環境メディア芸術情報芸術学統合演劇舞踊劇場美術作品はどこにあるのだろう。現在、目に見えて存在しているのだから、今ここにあるのだろうか。あるいは、作品が今存在している根本は、作家の手によるものだから、過去だろうか。しかし、私は、作品は未来に存在していると思う。作品は、当たり前だが鑑賞者が居なければ存在していないことと同じである。どんなに完成された作品を作っても、それがある場所が砂漠では意味がない。このことは、作品は鑑賞されることで完成する、とも言い換えることが出来るのではないだろうか。作家が、最後の仕事をし終えた時が、完成ではないのだ。この時点で、過去にはないということになる。では、なぜ現在ではなく未来なのか。それは、鑑賞するという行為が、本来、未来的な行いだからだ。人は作品を鑑賞する時、色々な想像をする。作者の想いを知ろうとする者もいれば、色や形から、連想的に何かをイメージする者もいる。そうしたイメージは、作品を前にする現在にはなく、作品と向き合い、作品中を想像と視線で歩くことで生まれる。そのイメージは、まだ各人の頭の中にあり、可視化されていない。目に見えることを現在とするならば、目に見えにくいイメージたちは未来ということになる。そのため、鑑賞されることで存在する作品というものは、過去でも現在でもなく、未来にあると言えるのだ。作家と鑑賞者、美術館と鑑賞者は、作品を一方的に提示し、それを受動的に受け入れる関係ではない。お互いに、欠かすことのできない平等な関係なのだ。そして、鑑賞することは、とても未来的であり、個人的な行為である。鑑賞するという行いに自信を持ちながら、各人のイメージを共有することで、新しい未来、新しい作品が生まれる。時間を大まかに三つに分けると「過去、現在、未来」になると仮定したとき、最も不確かかつ、他二つの概念と離れた場所にあるものが未来と言えるだろう。まず最も明確なものは現在である。知覚した直後に過去に変質するという性質こそあるが、それを踏まえた上でも、知覚をし、考える私の存在そのものに疑念を抱かぬ限り、唯一、肉体を投企し、思考を続ける個としての自己が感じることのできる唯一の概念と言えよう。次に過去だが、過去を感じるとき、肉体は既にそこには無く、おかしな言い方だが、現在だったときに自己が知覚した記憶で構成される。現在と違い、自己がその場にいる訳でも無いため、現在以上に概念的なものになることは否めないが、現在の上で成り立つ過去という認識を他でもない現在の考える私が感じることで後述する未来とは比にならない程の明確さを持つことが分かるだろう。最後に本題の未来だが、これが最も難解であり、概念として認識する以上のことは決して叶うことの無い概念だと言えよう。現在の私が想像をし、未来とはこれから起こり得ることだ、と概念として認識をすることを、現在の上で成り立つ未来、と形容できたら話は終わりなのだが、未来には、現在はもちろん、過去とも違い、考える私の実存の余地が無いのだ。先程の概念としての未来を、現在の私が実存と知覚を持って感じられたとき、既にそれは現在へと変質をしており、未来は結局のところ概念として考える他はない。アキレスと亀のようである。真に認識ができない未来を、不確かな概念として認識できるということは、不安の種の大きな元凶にもなり、人間の悲惨さの一つとも考えられるが、自己を超越した存在にまで認識が及び得る偉大な可能性とも言えよう。大きな話をしてきた挙句に言うのもどうかと思うが、私はこの設問の八百文字を埋める未来が見えていなかった過去を持つが、しかと埋めた過去も持つのだから。一般選抜■■教員コメント「未来」という問題を、作品の存在性、作品の完成/未完成、鑑賞者の存在と役割、鑑賞という行為といった、芸術の制作や受容におけるいくつかの重要な問題と有機的に結び付けて、説得力のある考察をしている点が、とても高く評価できます。小論文として非常に読み応えのある文章になっています。教員コメント「未来」とは「概念として認識する以上のことは決して叶うことの無い概念」であるとし、それゆえに未来が孕む「現在」や「過去」との複雑な関係性について、哲学的な思索を限られた字数の中で深く展開している点が優れています。その論理は細心さと力強さの両方を備えていて、とても引き込まれます。 芸術学《一般選抜》小論文[問題2] 「未来」について、800字以内で自由に述べなさい。
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