見ることの攪乱 《私は難解な作品とか眼を惹く作品をつくりたいとは思わない。部屋のなかでそれと共存でき、無視したい時には無視できるような作品を好む。私はそういう仕事をすることがたのしいのだ。私の芸術には私の経験が可能なかぎり凝縮されている。それが私自身の要求に合っているし、私は私が他のひとびとと分かちあたえられない要求を持っているほど特別な人間だとは思っていない》(注1) カール・アンドレのこのさり気ないことばが共感を呼ぶのは、かれがここで、 〈作品を見る〉ことに、もはやどのようなヒエラルヒー(階層的秩序)をもあたえまいとしている点である。かれは作品を㋐(放棄)しようというのではない。逆に、自己の作品のあるべき姿を語っている。アンドレが放棄しようとするのは、作品と〈見る〉ことの、ある特権的な結びつきである。 われわれがさまざまな事物を見るのは、視覚の生理的機能に還元されてしまうようなことではない。見るとは人間の社会的行為であり、われわれがことばを教えこまれるのと同じように、〈見る〉こともまた教えられるのである。もし、ことばを社会的制度というなら、見ることもまた社会的制度に属するといわねばならない。たとえば、現在われわれが事物にアニミズムを〈見る〉ことの少なくなったのは、そのように見ることを避けるように教えられてきたからであって、 われわれが生まれながらにしてアニミズムと①(むえん)な人間だというわけではないだろう。つまり、〈見る〉とは社会的に規制された行為なのだ。美術がひとつの視覚の制度として存在するのも、この〈見る〉ことの社会性を根底にしているのである。 この〈見る〉ことの社会性は、われわれに〈見る〉ことのヒエラルヒーを教えこむ。たとえば、われわれが一枚の絵と、街角で疾走してくる自動車と、部屋の窓外にある冬木立ちを〈見る〉ことを区別させるのは、このヒエラルヒーに基づく。それは、絵と自動車と木立ちはそれぞれに異なったものだということに帰着してしまうのではない、そこに秘められているのは、対象の差別でなく、それに応じて〈見る〉ことの意味づけを区別しようとする見方にかかわった問題である。われわれは絵画を絵画として見る。たとえ絵画が画布にぬられた絵具の層であるにしても、われわれはまず描かれたイメージを見るだろう。それはわれわれが生まれて以来、イメージを描くことを通して、それを〈見る〉ことを習得するからである。 とすれば、この〈見る〉ことのヒエラルヒーは、個人のおもわくを超えたものといわねばならない。ひとりの芸術家がどのようにわめきちらしても、かれひとりによってこのヒエラルヒーを②(はかい)することは不可能というほかあるまい。かれのできることは、せいぜいこのヒエラルヒーに混乱をあたえるということでしかない。しかし、いかに無力に見えようとも、この混乱こそなし得る最大のことなのだ。アンドレのどのような願望にもかかわらず、われわれはかれの作品を芸術として〈見る〉だろう。〈無視したい時には無視できるような作品〉 とはどんなものかということで、逆に無視しえないという逆説的事態さえおこりうる。しかし、それでもいいのだ。いったいこれはどのように見るかという㋑(懐疑)におそわれたとき、われわれはすでに〈見る〉ことのヒエラルヒーの混乱に一歩踏み込んでいるのである。 作品と〈見る〉ことの特権的な結びつきは、別に近代に固有の現象ではない。ただ近代には近代に特有の結びつき方があったというにすぎない。近代に㋒(顕著)な結びつき方とは、〈見る〉という行為が見られるものとしての作品のほうヘ㋓(収斂)され、移しかえられたということである。つまり、作品を〈見る〉ことは自明のこととなり、〈見られるもの〉としての作品が実体化していったのである。この実体としての作品の〈集合〉が、社会における美術という制度を眼に見えるものとしたのである。 こうして、(A) □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ しかし、こうした状況はまさに〈見る〉ことのヒエラルヒーを教えこまれるという学習を通して、われわれのなかにも息づいている。どのようにあたらしい作品といえども、この逆転的状況にしたがうかぎり、〈見る〉ことのヒエラルヒーに㋔(抵触)することはない。それは〈見る〉ことの階層的差別を③(ようにん)するのであり、それを維持するほかないからである。 ―略― 〈見る〉ことのヒエラルヒーとは、秩序を意味する。この秩序によって社会は安定を保つ。この秩序にひび44が入るのは、始めにいった〈見る〉ことの混乱によってである。それは芸術という定義しがたいもの、その〈定義のしがたさ〉をポジティヴにとらえることにほかならない。アンドレはそれを共存し〈無視しうる〉作品という形式で④(はあく)した。 われわれにとって、いま、⑤(せつじつ)な問いは〈芸術とは何か〉というかたちではなく、(B)〈芸術はどこまで混乱を生みだせるか〉というべきなのだ。混乱を否定すべきものとして見ず、混乱にたいする渇きをこそ肯定すべきであるように思われる。それは、意味の喪失でなく、意味を求めるべき出発点にわれわれを置こうとすることなのである。 (1) ㋐から㋔までの( )にくくられた漢字の読みを書きなさい。 (2) ①から⑤までの( )にくくられた平仮名を漢字で書きなさい。 (3) (A) □□□□□□□に入るのは、次の文章のうちどれか。正しいと思うものの番号を答えなさい。 (4) 筆者が述べる〈芸術はどこまで混乱を生みだせるか〉とはどういう意味か。25文字以内で答えよ。 (5) この文章を読んで、あなたが思うことを自由に述べよ。300文字以上、500文字以内で書くこと。― 中原佑介『見ることの神話』 160※「ヒエラルヒー」は、ドイツ語hierarchie 英語hierarchyを片仮名に表記したもの。「ヒエラルキー」と同語。注1 Carl Andre: “Artist Interview Himself" Städtisches Museum Mönchengladbach, Germany, 1968 ※□の数は実際の文字数と同じではない。 ( I ) われわれには美術作品を見るというより、美術を新たに捉え直そうとする逆転的状況が現出した。 (II) われわれには美術作品を見るというより、美術を新たに捉え直そうとする新たな状況が現出した。 (III) われわれには美術作品を見るというより、見させられるという逆転的状況が現出した。 (IV) われわれには美術作品を見るというより、見させられるという新たな状況が現出した。 ( V ) われわれには美術作品を見るというより、考えさせるという逆転的状況が現出した。 (VI) われわれには美術作品を見るというより、考えさせるという新たな状況が現出した。著作権保護のため掲載を控えております2022年1月20日(木)実施問題 | 次の文章を読んで設問に答えなさい語学/日本語 [90分] 【選択:外国人留学生】
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