溺死者としての自写像
彼らの見るところでは、紙を用いる技法は情趣のあるイメージをもたらすなど、選択の幅を大きく広げるものであった。視野の設定、ポーズ、ライティングータゲレオタイピストになし得る美学上の決定はそれだけである一に加えて、カロクイピストの場合には同じネガをもとに、そこからプリントをつくる過程で解釈上の判断を働かせることができた。明暗や色調をめぐる美学的な決定は、感光剤や調色液の塗布の仕方、紙自体の選び方によっても行えるし、それらとは別にネガ(またはプリント)に修整を施して画像の外観を改めることもできた。このような側面で、紙を用いる技法はエッチング、エングレーヴィングで伝統的に行われてきた手法を想起させたのであり、写真術を創造的に追求することに関心をもつ人々のあいだでカロタイプヘの評価を高めることにつながった。
紙写真術の他の展開 実際にはフランスでも、紙を用いる写真術は別個に見出されていた。大蔵省の役人だったイポリット・バヤールが1839年初め、フォトジェニック・ドローインクとカメラで露光して得た直接陽画とを展示公開している(写真技術小虫PartIを参照)。その中にはパリ市内に飛び地として残されていた田舎風の区域が都市化に見舞われはじめている光景(図24)などが含まれていた。これらはタルボットの技法に関する最初の報告がフランスに届いた直後、ダゲールの技法内容が正式に公表された8月より以前に制作されたのである。ところが、特にダゲレオタイプを推進する立場にいたアラゴーによって政治的な圧力がかけられ、彼の発見は公衆から遠ざけられてしまう。フランスの権力側によるこのような卑劣な措置15)に対して憤りを表明しようと、バヤールは自らを自死による犠牲者に擬するイメージを制作している(図25)。とはいえ、まもなく彼はパリ写真界の中でも傑出した写真家の一人となっていくのである。
バヤールの発見を知り、このもうひとつの紙による技法が大陸で優位に立つかもしれないと危倶したタルボットは、フランスでもカロタイプを広めようとした。そのためジョゼフ・ユーグ・マレ(バッサーノ侯爵として知られていた)とのあいだにプロモーションを委託する契約をかわし、また1843年のパリ旅行中に技法使用のデモンストレーションを行った。だが、フランス側の提携者が無能であり、このプロジェクトそのものが全く失敗だったことが判明してくる。フランスのアーティストたちは、イギリスのタルボットから直接に権利を購入するのを嫌って、1847年まで待機の構えていることを選んだのである。この年にはリールの写真家で書籍出版に大きな影響を及ぼす存在となるルイ・デジレ・フランカールニエヴラールが、タルボットの発見を受継ぎつつ、それに修正を加えた紙による技法を公表することになる。フランスで紙の写真術にもっとも熱心だった第一人者の一人には、画家キュスターヴ・ル・グレイがいた。彼は1851年、露光前の紙ネガに蠣引きすることで画像の明瞭さや調子表現の感度を増す方法を記述している。ル・グレイをはじめとするフランスの写真家たちによって1851年にすすめられた歴史的建造物の記録プロジェクト(第3章を参照)ではカロタイプが使用された。後で述べるコロジオン法によって時代遅れとなるまでのあいだ、カロタイプはフランスの批評家たちからさかんに称揚されている。1839年の初め、バイエルン王立科学アカデミーでタルボ・ットの発見が報告されたのを受けて、ミュンヘンの二人の科学者カール・アウグスト・フォン・シュタインバールとフランツ・フォン・ヨベルは紙ネガを用いる実験を行い、7月にはその成功作例を展示している。
しかし、それでもダゲレオタイプが素晴らしい細部描写を可能にすることを聞き及ぶと、シュタインバールは金属板の技法の方へ転じてしまう。アメリカでも、イギリスでと同様、カロタイプの柔らかな画質は主に知的に開かれた少数の人々(ボストン在住者が多い)にアピールするが、全体としては紙写真術への反応は冷めたものだった。ニューヨークで写真材料を供給する商売をいち早く手がけたエドワード・アンソニーとかわしたビジネス上の契約が無益に終わった後、タルボットは特許権をランゲンハイム兄弟に売り払った。彼らはこの技法の使用権をアメリカ中で売却することを目論むのである。ランゲンハイム兄弟が制作したカロタイプは新聞の賞賛するところとなるが、この会社はすぐに倒産を余儀なくされた。アメリカの公衆はダゲレオタイプヘの忠誠を守りつづけたのである。
ガラス・ネガとコロジオンの導入 明瞭さの不足と像が薄れてしまうこととが、紙写真術のもっともさし迫った二つの課題と見なされていた。中でも肖像写真家や、商業化へ向けて関心を抱く出版業者には、それらは特に大きな問題だった。鮮明度をあげていくため、肌理の粗い紙ネガをカラスに一すでにニエプスとハーシェルはこれを支持体として試みたことがあった一直き換える努力がすすめられる。それが最初に実用化したのは、銀塩の結合剤としてアルビュメン(卵白)を用いる技法で、1847年にフランスで発表された。一方、アメリカにおいてもホイップルとランゲンハイム兄弟が同じくアルビュメンで豊かな細部をもつガラス・ネガをつくるのに成功しており、それをもとにした印画をそれぞれでクリスタロタイプ、バイエロタイプと名づけた。ガラスはまた、ランゲンハイム兄弟が実験に手を染めていたステレオ写真(後述〕や投影用のスライド陽画をつくるのにもふさわしい素材となった。しかしガラスにアルビュメンを塗布することで粒子の目立たないネガが得られはしたものの、その手順は入り組んだものとなり、露光に要する時間はダゲレオタイプより長くなってしまった。有効な代案は1850年に具体化されてくる。彫版画工から彫刻家に転じたイギリス人フレデリック・スコット・アーチャーが、コロジオンという無色で粒状性のこまやかな新発見の物質に感光性を与え、ガラスの支持体上で用いる方法を発表したのだ(写真技術小虫PartIを参照)。湿った状態でこの原板を使うと露光時間が劇的に短縮されるため、この技法は湿板法、ないしは湿
式コロジオン法の名で知られるようになった。これを使用するに際しての手順のやっかいさは、今日ではほとんど想像にあまるものがあって、使用するたびごとに原板に感光性を与え、撮影後にはすぐに現像処理を行わなければならないことから、持ち運び可能な暗室を携行する必要があった。それでもなお、ガラス上のコロジオンに感光性をもたせることで得られる徴密な明確さ、コントラストの鮮やかさは、複製能力をそなえた技法を使用することを望む職業写真家の多くがまさに望んでいたものだったのである。この発見によって、職業としての肖像撮影、風景写真の出版、アマチュア写真家たちが世界各地で活動していく時代が始まり、並行してさまざまな写真術を便う企てが取り組まれていった。権利を購入することなしにカロタイプを商業的に利用する者たちに対し訴訟を起こし、自らの特許を守ろうしたタルボットの、関係者の悩みの種ともなった奮戦ぶりもまた、コロジオンの導入とともに終止符を打たれた。コロジオン法という贈り物を広く公開したアーチャーの行為は(彼は1957年に貧困の中で死去する)発明のすべてを占有しようとしたタルボットの企てと鮮やかなコントラストを示している。タルボットは1854年にコロジオン法もまた自分が1843年に取得した特許権の範囲内にあると主張したのだったが、新聞はこれを越権的な振る舞いだとして弾劾し、結果的に彼が権利侵害だとして問題視してきた事例を無効にするという適切な決定が下されたのである16)。タルボットは1855年、自分のもつ写真術に関わる特許権を放棄している。だがこの時までには、カロタイプは文字通りの意味で、ほとんど姿を消してしまっていたのである。
紙印画の展開 輪郭がぼやけがちという点とは別に、もうひとつカロタイプ写真家たちを悩ませていたのはプリントの画質の同題だった。譜調にむらが生じたり、しみが目立ったり、さらにもっと重大な点として、美しい仕.上がりのプリントであっても次第に像が薄れたり、腿色してしまう傾向があることは、特に商業化の企てをもつ人たちにとっては、悪夢に等しかった。さらに塩化銀紙へのプリントネカを感光紙に密着させ、像があらわれるまで露光させてつくり出される陽画一は、たとえ申し分のない出来でも、より優れたコントラストや明瞭さをもつ画像(ダゲレオタイプ)にひきつけられていた大衆には生気に乏しいものと見なされた。これらのことは、印画紙に画像を形成することにつきまとう問題として認識されていた。そこでアルビュメンと銀塩感光物質とからなる乳剤を紙の表面に塗布することで、像が紙の組成と混じり合わなしなうにするやり方が提案されてくる。ア
a world history of photography
写真の歴史
ナオミ・ローゼンブラム
大日方欣一 森山朋絵 増田玲 井口壽乃 浅沼敬子
飯沢耕太郎
1998.06.08
株式会社美術出版社
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