トップ多摩美の陶教育、こう考えて実践(目次)> 1. 陶プログラムの30年[1-5]
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1. 陶プログラムの30年
 1-5. 新傾向にさえ常識ができあがりつつある。要警戒
■ 中 村

 僕自身に考えてきたことを申しますと、よい作家であることと、よい教育者であることの両立、これなかなか難しいですね。よい先生はよい先生どまりになるし、作家だけで教育ができないということもあります。けれどもやっぱり、実技の教師をやるときには、よい作家であると同時によい教育者でいる、欲張った存在を目指すのがいいと思います。
 若くて活力のある教師というのは、あんまりしゃべれなくても、若いということだけで、若者にすごく魅力を感じさせますね。僕なんか、やがて定年になるころになって、自分でも不思議だなぁと思うけれども、ものの見方が、かつてはある一面だけを見て突っ走るという見方をしていたのが、その突っ走った挙句に走り方がいくつもあるみたいなことが、だんだん見えてくるようになってきて、なるほどこれが古老の境地なんだなぁと最近思っていますけど、そういう役割を持って学生に接するのもいいなぁと思っています。

 つぎに、言葉より実践力ですね。学生というのは、本当に怖いと思います。すべて見抜いているところがあって、表向きのきれいごとをいってもだめなんですよ。やっぱり最後には実践力があるかないかが、若者を引っ張っていかれるかどうかにかかっている。それから、見せられるだけのものを持つ。ちょっとえげつない言葉ですけれども、脱いでも魅力があるかないか。つくろったってしょうがないというのが教師にはありますね。それからもうひとつ、できることなら、後継者にも越えられないようなレベルの制作、あるいは制作活動をして見せる。これらができれば、もう素晴らしい教師ですね。

 ところで、約30年やってきて思うことは、多摩美のいまの学生と、さっきお見せしたスライドの学生とをくらべると、いまここにいる学生のつくるものは、うまい。その理由、本当のところは僕にもわからないんですけれど、でも、問題だと思うのは新しい人の動向、やきもののなかで、壺、皿ではない、伝統工芸でもない、オブジェ焼きでもない、そういう少数派による新しい動向の中にでさえ、常識ができあがりつつあること――それがすごく怖いですね。
 常識となったものは疑う、壊す、超える。そうすることで活力が高まる。逆に常識を踏襲していくと、そのジャンルの亜流の、活力のないものをつくることになる。うまくなったら、つぎは別の課題を自分に吹き込んで、第一歩から改めて踏み出していくということが大切なんでしょうね。なかなか難しい。でも、やらねばならないと思います。常識がこなすことがじょうずになっては、つぎの時代に踏み込んでいく能力にはなりえない。またこれまでは脱手工業や脱工業化時代を教育で考えて来ましたが、ポスト工業化時代の知的産業とか情報化産業への対応をカリキュラムのなかにもち込む必要が高まっていますね。

 院生レベルではそういうことはありませんが、学部の新入生に、何で多摩美へきたのか、何でやきものをやろうとしているのか書いて貰うのですが、設備がいいっていうんですよ。先生がいいからきたという人はいませんね。設備がよくて、キャンパスが広くて、お友達が多くできる、と、そういうものなんです。設備を完備して、カリキュラムを完備して――そうすると、これほんとに自己矛盾で難しいと思うけど、結局、過保護になり出すんですね。過保護になると、自力で何かをやることができない体質になる怖さがある。皆こっちがお膳立てをする。そういう過保護の問題を注意しながらやっていても、なりやすい。どこでどう突き放すかが大切ですね。

 一方で大学では、学生から、先生はどうだというアンケートを取るんですね。そうすると、わからなかったとか、わかりにくかったとか、いう学生がいて、本音は僕、自慢じゃないが、そんな学生のアンケートに100点満点貰いたい気なんてサラサラなくて、5年、10年を射程に入れた教育とは何だろう、くらいは考えていますよ。だけど、それは若造には読めない。これも、教育するうえでの大きな自己矛盾ですね。

【多摩美の陶作品・5】

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