ところで私は、工芸をめぐる批評といいますか、工芸に関する現代の理論の研究ということをライフワークしておりまして、そういった立場から、「時代をどう読むか」という問題について、少し補足してみたいことがあります。
教育に関わる議論からは外れるんですけれども、ご存知のように、最近、工芸に関わる議論が非常に盛んになってきています。この2年間を見ても、現代の工芸に関わる大部の評論集が、少なくとも数冊、出版されています。大阪芸術大学による『21世紀は工芸がおもしろい』、樋田豊次郎さんの『工芸の領分』、北澤憲昭さんの『アバンギャルド以後の工芸』、それから金子賢治さんの『現代工芸の造形思考』と、工芸という限られた分野に関わる出版状況としては、これはかなり活発といえる状況ではないかと思います。
これらの著作はおおむね、1990年代に交わされた工芸論のまとめというかたちをとっているわけですが、では、90年代から現在までのこの15年間の工芸論の成果とは、どのようなものだったのか。これにはさまざまな分析が可能かと思いますけれど、さしあたりここでは、3つに分けて考えてみたいと思います。
1つは、工芸作家への地道な取材作業が、研究者によって非常に厚く蓄積されてきたということ――そこから、工芸に対するこれまでの画一的な見方、たとえば工芸における技巧性の偏重、技術に対する過剰な傾斜といった見方を、個々の作家による材料との親和、身体と素材との相互作用といった方向に読み替えることが可能になった。さらには、そうした読み替えを通して、技術か表現か、伝統か前衛か、といった単純な二項対立の図式を乗り越えるきっかけが、受け手の側に生じてきたということが、いえると思います。
もう一つ、これは近代日本美術史の研究成果と多く重なり合う部分ですけれども、1920、30年代、いわばデザインの黎明期についての研究が、この15年間、熱心に進められました。このことによって、工芸、美術、デザインを、産業と芸術という大きな枠組みから考えてゆく視座が開けましたし、工芸、美術、デザインの重なり合いや、互いの疎外の状況が、歴史的に検証できるようになりました。これは、中村先生がいわれた「時代をどう読むか」という問題を、よりていねいに実践してゆくために、ないがしろにできない成果であると思います。
3つめに、これは美術に限らず、近代性を批判していくという、より大きな現代の問題意識から出てきた議論といっていいと思いますが、工芸の非・近代性に注目してその可能性を捉えていこうという視点が提示されたことは、たいへん刺激なことだったと思います。芸術と生活の対立、という、これは芸術の意義に関わる大きなテーマですが、この対立を乗り越えていくための一つのきっかけとして、工芸の非・近代性に注目していくということ。これによって、単独の工芸論ではなく、近代美術史全体のなかで工芸を眺めていくこと、そして、芸術と生活という、人類にとっての大きなテーマに工芸の問題を接続していくことが可能になった。
たいへん大雑把なまとめ方で非常に恐縮ですけれども、この10数年を通して得られた、このような成果のうえに、こんにちの工芸に関する議論が成り立っているということを、ここであらためて強調しておきたいと思います。
多摩美の陶プログラムが、現状への批判意識をもちつつ、なおかつ時代と関わりを重要視するという方向で行われているとするならば、それはもとより、造形行為以外の部分、言語や思考に関わる部分にも大いに通じてくるわけです。
ゆえに私は、これまでの先生方のお話を、この10数年の工芸論の展開と引き比べながらうかがって興味を覚えたわけですが、同時に、多摩美の陶プログラムの今後を考えていくうえで、中村先生から始まるこの30年、といった独自の歴史だけでなく、工芸論のこの10数年とか、近代日本美術史研究のこの20年といった、外部にある別なものさしを併用してみることも、あるいは有効なのではないかと思いました。
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