まずは、多摩美の陶プログラムの今後の課題というテーマで話をしてみたいのですが、これまでの議論のなかで、この30年間にやってきたことが様式化してしまい、それが今後の展開に、あまり好ましくない作用を及ぼしているのではないかという、ちょっと自省めいた言葉が先生方から出たことがありますね。それは今後、どういった方法で解決されていくのか、お考えがあればうかがいたいのですが。
30年続けてきたことが常識化しているという中村先生のレジュメは、かなりショッキングでしたね。先生がレジュメに書かれた項目を、自分の考えのように思っている部分が多くありまして、それをまた引き継いで学生に伝えているわけでしょう。体のなかにしみ込んでいるのかなというのが実感です。それが様式化してきていると。
ただ、教え込まないで自力をつけることを目的に教育されているわけですから、そこが微妙なんですね。表面的には多摩美の陶芸の傾向はこうだ、と見られがちなんですけど、本当はそうあってはいけないというのが、中村先生のレジュメにあらわれているわけです。ですから僕らが肝に銘じなければいけないのは、自分の仕事なり、制作なりに関わっている姿勢、探っているその姿、それが学生たちに伝わっていくことが一番重要だろうということです。
ものづくりとしての姿を学生にどれだけ見せられるか。それが授業や講評通じて学生に伝わっていけば、教育が常識化してしまうという問題を解決してゆく大きな力になると思います。
逆にいうと、いま変えていくべき課題というものは、陶プログラムのなかでは特に見出されていないと理解していいですか。
なぜ常識化と中村先生がおっしゃったかといえば、それは外からの評価だと思うんです。多摩美の陶プログラムの作品はこんな感じ、こんなことやってる、というのがおおよそ知られ始めている。
「多摩美スタイル」みたいなものが、何となく浸透してきているんじゃないかということですね。
スタイルになるというのは、それだけ裾野が広がって世の中に認識されているということで、悪くはないんですけど、こちらとしては、それが様式化せず、次の段階に踏み込めるかが問題です。
その「多摩美スタイル」について、解説していただけませんか。
明確なものではないし、何となく思い浮かべるところがあるからいえる、という程度のものですけど、わーっと粘土を手びねりで積み上げて、やたら背よりも大きいものをつくってみたり、とかですね。 僕が学生のときは、派手な絵付けをするのが仕事が、非常に多摩美っぽく思えましたけれど、いまはまた違うかたちがあるだろうし・・・。内容は変わっても、そういう風情をつくると何となく「らしく」見える。学生のほうも敏感だから、それを型としてぱっと掴む。型を掴むというのは、すごくだいじなことで、それによってあるレベルまで行くことができるわけですけれど、つぎにその型をどれだけ脱することができるかが、じつは難しい。
効率を考えると皆を型に押し込めて、そこから這い出てきてね、というふうに進めていくのも一つの方法で、去年はこんな作品がありましたと学生に見せれば話は早いんですけれども、それだけはしたくない。そこが面白いところでもあり、しんどいところでもあるということです。
僕の経験でいうと、僕が最初、80年代半ばぐらいに外で発表するようになったとき、まず聞かれたのは「どこでやっているの」ということ。「多摩美です」と答えると、「ああ中村錦平先生のところね」と、それでひとくくりにされるんです。 その当時、僕は自分では、中村先生に似ているとはひとつも思ってなかったんですけど、すごく影響を受けているといわれ続けてきた。それと同じことが、いまの学生にもいえると思うんです。似ているといわれれば反発もするし、素直に受け入れる部分もある。 そういうことが積み重なっていくと、あるとき変わっていくんです。ある傾向にあったり、似ていたりしても、そこにつくり手のつくる力がきっちりあるんであれば、どこかで変化していきますから。
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