入学する前には、ここでつくっているようなものはさほど認知されていないわけですから、見る機会はない。それで課題に従って、ああこういう発想もできるんだという嬉しさ、楽しさ、つくる面白さでつくるんですね。
確かにそこには時代がもつ共感があるだろうから、つくっている本人も、時代錯誤をやっている意識もなく、楽しんでいける。
ただ、これは全ての美術にいえることだと思いますけれど、最初はポツポツと、こんなものあってもいいんじゃないかしら、と手探りでやり出す。それがある程度、面白くなってくると、技も磨かれて完成度も高くなってくる。そしてあるところから成熟してくる。ところが成熟し出したところから、慣れてきて、そのあたりから下り坂が始まる。
これは簡単にいうと、桃山時代、初代長次郎が、ポツポツとつくったお茶碗が、3、4代目ぐらいになると慣れてきて、高台の横、裏の小さな渦の形まで凝り出す。いまの10何代目かになると、どう壊して見せるか、に技巧を凝らす。アメリカのやきものでも、1960年代に僕が驚いたアメリカのやきものを、井上君ぐらいの世代は「何をそんなアメリカアメリカというんですか。僕らもうすでにやれますよ」と。
それは明らかに、日本国のやきもの、デパートに売っている桃山の美意識でつくられたやきものに対して、多摩美の学生も400年の差を縮めて20世紀のものを難なくこなせるようになったことを意味すると思うんです。ただ、それが常識化すると、みずからの問題意識がだんだん希薄になっていって、工芸なんて技を磨けば何とかなる世界ですから、ますます技を磨く人が登場してきて、この時代、こういうものをつくり出したら面白いじゃないかという、その原点が希薄になっていく。そういえば、齋藤正人という03年院修了生の「齋藤家の上京物語」とかいう個展がありましたね。
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