先ほど、授業が常識化している面があるので、それをどう打ち破るかというお話をされていたと思いますが、なかなかこれといった打開策を見出せないもどかしさを感じました。
それに対して僕がいえることは何か、わかりませんけれども、卒業したあと自信をもって――前回、尹さんのいっていた「自信をもってやっていく」、とにかく、ものづくりとして世のなかを渡っていくぞという場合にベースとなる自信を、どうにかして身につけるということが必要で、それをどうするのかが、ポイントになるのでは、という気がしているんです。
「何でもあり、というのは、キツイとかキツくない」とか、そういう話もありましたけど、僕は、キツイことを、とことんキツイ状況に追い詰めていくのもよいのではないかと・・・。自分でほんとに目の前が真っ暗になるような、奈落のそこに突き落とされるような気分になって、でも、そういうなかで何かを掴んでいくということが、自信をつけるきっかけになるんじゃないかなあという気がするので、とことんきつい思いをさせていくのも手だという気もしないでもないんです。
まあ年をとってくると、新しい時代の感性がわからなくなってくる面も確かにあるけれども、そこはやはり、一つの戦いという感じですね。いかに自分の頭が古くても、俺はこう思うということを、講評でもビシビシいってあげればいいんじゃないか。逆にリアクションとして、若い人からバカにされるようなこともあると思いますけど、そのバトルをやっていくという気持ちもいいんじゃないかという気がしました。
それから、いまの時代をどう認識するか、ということで、多摩美では、情報化時代、ポスト工業化時代ということを意識されているみたいですね。僕はじつは、前期だけですが「現代工芸論」という講義をしているんですが、先日、講義の最終日が参議院選挙の次の日だったので、僕はその結果も踏まえて、「これからは野党という存在が希薄になって、与党一点張りの時代になっていくから、ものづくりや表現には、やはりいろいろなプレッシャーがかかる時代になっていく。だから、そういうなかで自分がどう、ものをつくって生きのびていくかということを問われるようになるだろう」という話をしたんです。
まあ、常套的ないい方をすると、例の「9.11以降」としての現代を、どう認識するかということも、表現者としては重要なことだと思います。学生の書いたレポートなどでも、いまは戦争のただ中で、命が脅かされているという状況を切実な感じで感じ取って、そういう時代において自分は何をつくっていくかといったことを書いた学生もいたんですね。ですから、そういったあたりについての現代の認識も必要じゃないかと・・・。とりあえず思いついたことをお話しました。
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