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2. 今後の課題
 2-6. 陶芸の概念をあらためて組み立てる
■ 尹

 作家として先生として、やきものという素材をどう意味づけているのかいえば、やきものというのが非常にありふれた素材であることに、すごく面白みを感じています。日常の雑器もそうですが、原料にまで遡れば地球を構成している物質とほとんど同じ。そのなかの特定のものを選んで合成して、ある温度で焼いて食器をつくってきた文化があって、それを僕らは陶芸と呼んできた。
 地面を掘って出てきた土石類に熱を加えると硬くなる、300℃を超えると水に入れてももう元に戻らなくなる、そして5000℃、6000℃とさらに科学反応が続いていくわけです。
 その広がりから眺めると、どこにでもありふれた土という原料にうまく手が加わると、舞台の装置が転換するように、思ってもみなかった価値が現れてくるという、そのダイナミックなさまが面白くなってきます。私たちはたまたま、ある温度帯のところで焼くように粘土と道具がセッティングされた陶芸という環境にいるけれども、私の頭のなかでは、自分がその広がりのなかのどの部分を使っているのか、という意識が常にあります。そしてそういう見方からすると、いま見えているやきものは、ほんのちょっとの部分でしかないような気がするんですね。

 だから、私は多摩美の先生としては、そういう広がりの意識をもって、やきものでできるいろんなことをする人がどんどん現れてきて、思いもよらないやきものが、思いもよらないジャンルに向かっていくさまを見てみたい。
 陶芸の概念や材料、設備、道具のシステムを単に否定するのではなく、たぶん21世紀には、そのシステムを一回バラして組み立てていくような作業が、必要になってくると思いますが、それが組み立てあがっていくさまをドキドキしながら見ています。作家としても、その一個をつくってみたいという気がします。

【多摩美の陶作品・20】
  ■ 冨 田

 他に会場から、何かいかがでしょうか。

  ■ 提 髪

 先ほど井上さんが、何でもありにした場合、ゆるぎないものが、なくなるんじゃないか、というような発言をなさったと思うんですけれど、そのゆるぎないものとは何なのかと思いまして。

 例えば、前半で話題にのぼった齋藤さんの表札の作品、あれは表札をやきものでつくっているようですが、作品の趣旨からすれば、買った表札だっていいし、誰かにつくらせてもかまわないことになりますよね。

  ■ 井 上

 僕は、現物のものとして、触れられるものとして、それがいいかどうかという見方をしているんですね。例えば、同じ表札であれば、買ってきてもいいという発想もあるんですけど、そうではなくて、彼自身が手をくだしてつくって提示することで、ものとしての強い働きかけが生まれて、彼の考えが伝わってくるんだろうな、と。テキストだけを並べていくのとは違って、そこに実体があるから面白いんだろうというのが実感です。

 「ゆるぎない」というのはそういうことで、手を使ったり、粘土を介して手を使ったりしているあいだに、自分の考えが何ものかに変わって、ものが伝えるという、そういうことかなと考えています。

 ただ、何かを見るときに、ジャンル分けしなくてもいいのは確かですね。やきものを使って、自分の手でつくっているから、あなたの作品は工芸ですよ、とはならなくてもいいと思います。逆に、それが解体できるくらいの強さが、ものをつくっていくことによって、手に入りそうな気がしてるんです。

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