森さんのお話されたように、つくり手以外の職能への意識が学科として独立できるということが、建築業界ならではの、層の厚みだと思いますね。意識は同じであっても、まさかこの学科でも、そこまでの独立はできない。
というのは、日本にはこんなにたくさんのやきもの愛好者がいるにもかかわらず、そういったことが意識化されてこなかった陶芸というものの問題だと思います。日本人は、細やかな感受性で陶芸というものをエンジョイしているにもかかわらず、そこに一本の脈しかないように錯覚させられている。でも文芸の世界で、大衆小説とか純文学とかあるように、大衆陶芸とか純陶芸とか、それに類する概念があってもよかった。
いま、昭和歌謡を楽しむように、例えば院展系の作品をエンジョイしてみたりとか、それぐらいフラットに楽しめる文化があってもいいのに、残念なことに、建築の世界のように多面的な文化として成熟していない。でも反対に考えると、それは成熟すべき余地がたくさんあるということで、やきものを取りまいてきた情況を冷静にながめていけば、これからやきものを楽しんでいくうえで、未開拓な領域がいくつもでてきて、そこが新しい価値で埋まっていくことを楽しめるんじゃないかなという気がしています。
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