初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール
森の風景

16、17世紀に描かれた宗教や古典上の主題に基づく絵画では、風景は不可欠ではあっても必ずしも絵画の重要な要素とは見なされていなかった。だが19世紀初頭までのあいだで、それ自体の価値が重んじられるようになるのである。こうした関心は、天地万物への驚嘆の念というロマンティックな観点から派生しはじめ、やがてもっと科学的なものになり、画家たちは雲や樹木、岩、地形などを精微に観察すべきものと見なすようになる。ダゲールその人が樹々の群を描いた鉛筆画は、そうした一例である。「絵画とはひとつの科学であり、自然の法則の探求として推し進められるべきものだ」2)と述べたのはイギリスの風景画家ジョン・コンスタブルだったが、彼はその時、芸術と科学を同じ目的で結びつける、そのような真実への重視を宣言していたのであり、これは写真術へ向かう道筋の準備に力を貸すことでもあった。というのも、自然を冷静に観察し忠実にあらわしていくべきだとするなら、カメラの正確かつ公平無私な「眼」以上にそれにふさわしい手段はなかったはずだからである。19世紀には、もうひとつの点でグラフィック・アートの志向が写真術への要求と結びついてくる。フランスの写実主義の画家キュスターヴ・クールベが「同時代であること」の必要を説いたのに賛同して、多くの芸術家が旧来の歴史的なテーマを拒み、現代生活の中の身近な事象を扱った新たな主題群に向かっていったのである。彼らはまた、伝統的な主題内容を放棄するとともに、人物像を自然な生き写しのポーズで描いたり、顔や姿態のつ かの間の表情をつかみ、実際の光の状態が生む効果を再現したりしていくため、新しい方法を模索していった。つまり彼らは、この世紀の半ば以降にカメラが映像として記録することができるようになる情報を求めていったのだ。芸術の顧客層の変化、絵画的なイメージを求める大勢の新しい観衆の出現ということも、写真術の受容に向けて道を開くもうひとつの条件となった。教会と貴族階級の権力や影響力が弱まるにつれて、それらが演じていた芸術のパトロンという役どころも、新興の中産階級によって担われるようになる。この層の人々は、かつての特権階級ほどには美学的に教化されてし・なかったため、変化に富んだ題材を描く、一目で見て理解できるイメージを好んだ。そうした作品への広汎な需要に応じて、逸話的な場面、風景、よく知られた建築物、異国のモニュメントなどを描くユングレーヴィング(彫版画)やリトグラフ(石版画、1820年以降)の図像が、安価な定期刊行物の所収図版として出版されたり、あるいはポートフォリオやテキストなしの一枚物のかたちでも手にされるようになる。そこへ写真が登場してくると、教育効果や楽しみをもたらす図像への中産階級の人々の渇望を満たしてきた、これらグラフィック・イメージの群れのあいだに、文字どおり、そして比倫的な意味でも、それはすみやかに滑り込んでいったのだった。写真術の誕生をめぐっては、科学・技術上の問題で不確実さがつきまとったし、フランスとイギリスの政治的・社会的なライヴァル関係がその障碍ともなった。しかし、この新しい画像技術は、当初から公衆のイマジネーションを強く刺激したのである。ユングレーヴィングやリトグラフと同種類の形象を描き出すことが多くなってくるに従って、細部をより正確に写し取り、制作にかかる費用も抑えられ、それだけに購入もしやすくなるため、写真は手描きの作品に取って代わることになった。写真術の受容に向けて注がれた熱意と、それがもたらす事実情報の貴重さへの認識に裏づけられながら、この世紀の残りの歳月を通じて、技法を改良し機能を拡張していこうとする努力がたゆまずつづけられていったのである。