初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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レオナール・フランソワ・ベルジェ
ジョゼフ・ニセフオール・ニエプスの肖像

ダゲレオタイプ

ダゲレオタイプの発明は、1839年1月にフランス科学アカデミーの公式報告書で告知されて明らかにされた。これに先だち、ダゲールはこの新しい画像制作の技法に対する数名の科学者・政治家の関心をひくことに成功していて、その一人がフランソワ・アラゴーであった。アラゴーは著名な天文学者で、光の科学的様相に関心を寄せており、フランス下院議員でもあった。物理学や化学の研究こそ国家経済を繁栄に導く基礎だと考える知識層のスポークスマンとして、アラゴーは、ダゲールが当初の提携者ジョゼフ・ニセフオール・ニエプスの没後に独力で完成に導いた技法を、フランス政府に買い上げさせるようにはたらきかけた。

042そして1839年8月19日、発明者をともない科学アカデミーと芸術アカデミーの合同会議の場で、発明内容の公開を行うのである。
この後、国立工芸学院(コンセルヴァトワール・デザール・エ・メティエ)での週ごとの会合の席で、そこに集う芸術家、知識人、政治家らに向け、技法の実物が示された。こうしてヴェールを取り払われた驚異の発明は、1820年代から着手されていた長年にわたる実験の成果であった3)。ニエプスは初め、薬品処理を施した金属板の表面を光に晒すことで像を形成させようと努め、これにより画像を食刻し印刷を行うことをもくろんでいた。

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ジョゼフ・ニセフオール・ニエプス
ル・グラの自宅窓からの眺め

彼は鳩舎の映像をとらえることに成功するが、その際、露光に8時間以上を要している。現存する中でもっとも初期の、このかろうじて判別可能な写真で、影が奇妙な位置に写っているのはそのためである。ニエプス自身はヘリオグラフィと呼んでいたこの研究が行き詰まりを見せていた時に、画家ダゲールとの提携関係が生じた。ダゲールは別個に、カメラ・オブスクラの像を固定させるという着想にとりつかれていた人物だった。なぜ彼がこのような課題にひき寄せられ、さらにまた光が生む効果一般に関心を抱いたのかは、彼が舞台の背景画や、パリで人気の視覚的娯楽だったジオラマのイリュージョンに満ちた場面を描く画家として活動していたというところから理解することができよう。ジオラマは、見物客をぐるりと取り巻くように場景を描き出して配置するパノラマの発展したかたちであり、リアリスティックな描写を施した一つながりの紗幕の上に、光の作用によって三次元感覚や大気を想わせる効果を浮かびあがらせる工夫がなされたものだった。暗い室内で椅子に腰をおろした観客が、描かれた場面に視点を合わせていくにつれ、嵐や日没のさまが如実にあらわれ、日常の世界を超え出るような効果がもたらされるのである。ジオラマをヨーロッパでももっともポピュラーな娯楽のひとつにまで推し進めていく中で、ダゲールは明敏に公衆の趣味を判断し、技術的・経済的・芸術的な配慮、を行き届かすことのできる興行士として本領を発揮していった。そして同様の役割を、新しい発明においても演じることになる。提携者のニエプスとちがって、写真術の発展と受容は、発明そのもののメリットもさることながら、それをプロモーションしていくやり方によっても大きく左右されるにちがいないとダゲールは考えていた。1833年にニエプスが没した後、光によって画像をつくり出すための技術上の課題に取り組みつづけ、ついに実用的な技法を達成すると、1838年に彼はまずそれを一括して売却しようとし、次いで予約金を募ろうとする。それらの企てが失敗に終わると方針をあらため、今度はより政治的な動きを見せて、フランス政府による技法の買い上げを画策した4)。こうして1839年8月、アカデミーの殿堂での名士たちの会合の場に、アラゴーにともなわれこの画家が登場することとなった。興奮につつまれた雰囲気の中、アラゴーはダゲールが開発した画像獲得の方法(基本的にはヨウ素の蒸気をあてて感光性を与えた銀メッキ銅板を「露光」させ、さらに水銀蒸気で懐すことで潜像を「現像」するとし)うもの)を略述し、予想される用途を列挙し、あらかじめ想定しておくことができないような発展もあり得ることを予言的にいい添えた。ひとつの可能性として、肖像を安価に制作することが強く望まれていたのだったが、1839年の時点では、ダゲレオタイプの画像を得るのに必要な露光時間は、被写体のもつ色合いや光の強弱しだいで5分間から60分間にまで及んでいた。このため、生きた人間の外見や表情、動きなどをとらえるのは不可能だった。