初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール
パリ、タンプル大通り

たとえば、1838年にダゲールが撮ったタンプル大通りの自室の窓からの眺望二点のうちの一方では、眼で確認できる人間はポンプに片脚をのせて不動の姿勢をとっている人物のみで、その場から立ち去るのが早かった他のすべての人影は、そこへ痕跡を残そうにもあまりに露光時間が長すぎたわけである。そうしたことから、この技法を肖像向けに実用化する努力は、すぐには着手されなかった。公式の発表がなされた直後、ダゲールはダゲレオタイプ制作のための手引き書を出版した。大方の読者にとって、実地にそれをやってみることは、そこに書かれているほど容易でないのは明白であったが、重量があって扱いにくいカメラなどの機材を撮影にふさわしい場所へ持ち運ぶ面倒さ当然、時間とお金がかなり費やされるにもかかわらず、富裕層のあいだにはこの技法にひきつけられた愛好者が早々とあらわれた。彼らは新発明のカメラや撮影用原板、化学薬品、そして特にその手引物理学や化学の研究こそ国家経済を繁栄に導く基礎だと考える知識層のスポークスマンとして、アラゴーは、ダゲールが当初の提携者ジョゼフ・ニセフオール・ニエプスの没後に独力で完成に導いた技法を、フランス政府に買い上げさせるようにはたらきかけた。
そして1839年8月19日、発明者をともない科学アカデミーと芸術アカデミーのき書を買い求めに走った。同書の売り上げは、最初の3ヵ月だけで9千部に達している。強い関心が沸き起こる中、2年間が経過するうちに、ダゲールが設計し、アルフォンス・ジルーがパリで製造したモデルに加えて、さまざまなカメラがフランス、ドイツ、オーストリア、アメリカで製品化された。幾人かの光学研究家たちは、すぐにこれに応じてカメラ用に新しいアクロマティック・レンズ(収差のないレンズ)を考案した。その中にはパリのシュヴアリエ兄弟やロンドンのアンドリュー・ロス、新しく登場したオーストリア人科学者ヨゼフ・マックス・ベッツファールが含まれていた。彼らは皆、他の幅広い用途のためにもさまざまな光学レンズを提供した人々だった。ダゲレオタイプでモニュメントや風景を撮ることに熱中する人々の姿は、パリや地方、あるいは国外においても急速に増えていった。

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テオドール・モーリセ
ダゲレオタイプ狂

1839年12月には、すでにフランスのある新聞が、こうした有様を熱狂的流行、あるいは《ダゲレオタイプ狂》として活写するまでになっていた。ダゲレオタイプの撮影に興味を抱いたアマチュア紳士たちの中で、熟達した技術を身につけていった一人に、ジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵がいた。1840年に外交使節として赴いたギリシアで、彼はパルテノン神殿をとらえた最初のダゲレオタイプ画像を撮影している。パリヘもどってから、彼は自身が掌中にしたものにあらためてひきつけられた。手描きの絵とは異なり、カメラの画像には、間近に見つめ直してみると、露光時に撮影者も気づいていなかったような微細なディテールが読みとられたからである。アクロポリスから遠く離れたところで自作のダゲレオタイプを拡大鏡で吟味して、初めて彼はパルテノンを構成する彫刻的要素をそこに確認できることに気づいた。ディテールの驚くべき明断さは、今日でもダゲレオタイプのもっとも人目をひく特徴となっている。この明晰さゆえに、グロはディテールヘの細やかな注視をいざなう特質をもつ風景や建築物の内部空間を集中して撮影するようになった。

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ジャン・バティスト・ルイ・グロ
テームズ川の橋と船

アラゴーは、アカデミーの8月の合同会議で、この新技法は世界へ向けて-人民主ルイ・フィリップの政府から気前よく振る舞われるプレゼントとして-贈り届けられるであろうと告げている。だが、すぐに明らかになってきたのは、イギリス国民がこの技法を用いようとする場合、ダゲールの代理人から権利を購入する必要があるということだった。こうした契約規定を設けたダゲールやフランス側の排外主義(ショーヴイニズム)について、これまでに多くのことがいわれてきた。しかし、このことは、フランスとイギリスの支配階級のあいだでつづいてきた科学面や経済面での優劣を競い合う関係という文脈の中で眺めたほうがよい。このような認可の制限はまた、英仏海峡の向こう側の優れた科学者タルボットが、光と化学物質の相互作用から画像を生み出すもうひとつの方法を達成したことにフランス人たちが気づいたことの反映でもあった。