初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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ヴェルヘルム・ハルフター
フリードリヒ大帝像、ベルリン

パリのフランス科学・芸術アカテ"ミーでの合同会議1839年10月、ダゲールの技法の公開と彼によって撮影された原板の展示会が、ロンドンのアデレード・ギャラリーと王立学士院とで催された。どちらの場でも、科学上の新発見を一般に広めることが主眼とされていた。ダゲールの手引き書の英訳は9月に刊行され(これは発明の年に出された40種類のヴァージョンのうちのひとつである)、たいへんな評判を呼んだ。しかし、次章でその反応ぶりを取りあげることになる肖像画家たちを除けば、イングランドとスコットランドではダゲレオタイプを楽しみとして制作したいと強く望む個人はほとんど見られなかった。タルボットは1月以来、フランスとイギリスの新聞や私信を通じてダゲールの発明についての知識を得ており、アデレード・ギャラリーの展示を訪れ、ダゲレオタイプの制作に必要な機材を買い込んでもいる。だが、彼はそれを「輝かしい」発見として賞賛しはしたけれども、自分でこの技法を試みてはいないようである。ドイツ語圏の諸都市では、ダゲレオタイプに対して肯定的に受けとめる反応が公にされ、オーストリアやプロシアの支配君主も強い関心を表明している5)。リトグラフ印刷工場の経営者ルイ・ザックスは、1839年4月のパリ訪問から帰国すると、フランス製のカメラ、原板、ダゲレオタイプ写真をその年の中頃までにベルリンヘ送り込むよう手配しており、また数カ月後には地元製の機材で風景を撮影するのに成功している。ヴィルヘルム・ハルフター撮影の1851年のベルリンの風景をはじめ、ごく初期の頃から多くの都市で街の景観が記録されている。
フランスほどにはブルジョワジーが裕福でなく、産業化の進行も遅かったためである。ドイツでも他の国々においてと同様に、ダゲレオタイプヘの関心は肖像制作の簡易な方法への期待というところに集中していた。ウィーン工芸学校の司書アントン・マルティンは、1月にパリで行われた発表を報告する科学誌の記事を通じて、この新しい画像制作の方法に熱烈な関心を寄せるようになり、1839年の夏にダゲレオタイプ写真の制作を試みた。これは完全なかたちでダゲールが技法内容を公開する以前の段階であり、ウィーンでその年の秋にダゲール撮影の写真が展示公開されるのより早かったわけである。

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アントン・マルティン
冬の風景

マルティンがこの2年後に撮った《冬の風景》では、世俗的な主題がさりげなくとらえられている。しかし、こうした情景は、1830年代には画家たちをひきつけはじめていたものなのである。この一例に示されているようなカメラの記録的なイメージによって、画家たちは、ロマンティックな主題設定や地誌的な風景を技巧たっぷりに描き出すことから離れるよう、さらに強く促がされたと考えられる。スイスの彫版画工ヨハン・バプティスト・アイゼンリンクは、ダゲレオタイプの可能性をいち早く理解し、展開させようとしたヨーロッパ人の一人だった。彼は1840年から43年までのあいだに、自国の景観を撮った手彩色のダゲレオタイプをアウグスブルク、ミュンヘン、ジュトゥットガルト、ウィーンで展示している。

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ヨハン・バプティスト・アイゼンリンク
チューリヒ風景

また、ダゲレオタイプをもとに描き起こしたアクワチント(松脂などで多孔質の地をつくる腐蝕銅版画)画像(図12)を出版し、一点眼りのイメージをより広く公衆に届かせるやり方を示した最初の一人でもあった。そこで扱われた主題内容もまた、18世紀後半以来の風景版画の伝統を受継ぐものであり、やがて1850年から80年にかけて非常に多くの写真家がヨーロッパ大陸の景観に取り組んでいく、その先駆というべきものだった。イタリアでも、科学者や画家、旅行家らのあいだに、新しい画像獲得の技法に対する関心が湧き起こっていた。フランス語の手引き書からの翻訳は1840年に刊行され、加えて北方からの来訪者たちが、自ら使用するためダゲレオタイプやタルボットのネガ/ポジ式技法の装備を携えてきていた。この世紀中頃のローマやフィレンツェには古典時代からの廃嘘が遺されており、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカなど各国よりやって来た居留者、旅行者たちが面白い混溝状態をつくり出していた。それゆえイタリアの写真全般にユニークな性格が生まれ、風景や風俗的主題とする写真の商業化が早くから進められた。たとえば、それまで慣習として旅行者が買い求めてきた廃嘘のエッチング(腐食銅版画)、ユングレーヴィング、リトグラフなどは、写真術導入から10年のあいだで、カメラによるイメージに取って代わられるのである。 パリからさらにもっと東方や北方の地へ目を移してみると、ダゲレオタイプの実践はそれほど一般化していない。発見のニュースは、フランス紙の1月の告知記事の再録として、クロアチア、ハンガリー、リトアニア、セルビアには1839年2月、デンマーク、エストニア、フィンランド、ポーランドにはその年の夏のあいだに届けられており、それにともなって技法をめぐるたくさんの科学的論説が各国内で見られるようになる。ロシアでは、銀板のかわりに銅や真録の上に像を得る、より安価な方法のための実験が行われて成功を見た。また、1845年までに、あるロシア人ダゲレオタイピストの場合、コーカサスの山々を捉えた画像をパリで展示できるほどの自信を身につけていた。しかし、こういった遠隔の各地での初期の写真術の有様には、中産階級層がまだ広汎な規模ではっきりと社会に登場してきていないことがうかがわれる。中産階級の人々が、この媒体を技術や用途の面で発展させていくのに必要なだけの時間とエネルギーを投じることができたのは、何といっても、まず最初に産業化を推し進めていたイギリス、フランス、アメリカという三つの列強においてだったのである。