初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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サミュケル・f.b.モースの肖像
アメリカにおけるダゲレオタイプ

ヨーロッパ産の他の技術の場合でも同じことが見られるのだが、アメリカ人たちはダゲレオタイプを受け入れるだけでなく、それを素早く商業上の利益に転じさせている。1859年の写真雑誌『ハンフリーズ・ジャーナル』に記載されている「ダゲレオタイプのもつ仕上がりの物柔らかさ、繊細な描写力は、光の化学作用によってつくり出される他のどんな方式の画像でも、これに匹敵するものはいまだあらわれていない」6)という見解こそは、アメリカ写真の第一世代に共通する信念だった。ダゲレオタイプは、20年間にわたりヨーロッパ人たちがもっと応用度の高いネガ/ポジ法の技術に移行した後も、しばらくのあいだ一技法として選択されつづけたのである。こうした忠実ぶりを導いた理由は、画像の鮮明さということだけではなく、アメリカのダゲレオタイピストたちが達成した画像の質の高さゆえであったにちがいない。霧深いロンドンの住人たちが羨む北米大陸の光の豊かさに、それを可能にした一因があるともいわれたが、明らかにもっと意味深い社会的・文化的要因があった。現実を写し出す鏡と考えられたダゲレオタイプに特有の明快でリアリステイックな細部描写は、手描きの芸術に賛沢さを嗅きとって疑いの目を向けたり、実用科学に関することならほとんど何にでも夢中になったりする、社会の嗜好によく適合するものだったのだ。機械修理や化学薬品の調合などのなりわいと潭然一体となりながら、ダゲレオタイプは、経済不況下にあっても社会的地位を向上させ、空間的な移動をさかんに行っていた民衆をひきつけ、挑戦させる対象となっていっ鵡それは生計の手段として、物入れや時計づくりなどの手先仕事とも気やすく結びつき、西部に新天地を求めて移住する人々が転地先で手早くできる職業にもなった。 もっと高逼な期待をダゲレオタイプに寄せたアメリカ人もいた。光が生み出すイメージということから、それを「自然の霊的な働きかけ」という、エマーソン流の観念と科学的実証主義の実践を結合させたものとして思い描く人たちがあらわれるのである。ある者はこの新しい表現手段を用いて、アメリカの歴史と経験のユニークな諸相を、市民たちの顔を通して明示できるのではないかと期待した。またある者は、それが機械によってつくり出される画像であるがゆえに、過剰な技巧を避けられ、この世紀の中頃の自国のグラフィック・アートに目立っていた偏狭な態度や修練のあり方から免れることができるにちがいないと信じたのである。
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ジョゼフ・サクストン
フィラデルフィア中央高校の倉庫と鐘楼
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ジョン・プラム
首府の建築物、ワシントンd.c.
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ウィリアム&
フレデリック・ランゲンハイム
ジラード銀行
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ジョン・アダムズ・ホイップル
熟練した技術をもつ画家であり、電磁気を利用した電信の発明者でもあったサミュエル・F.B.モースがそれに接して賛辞を述べた後に、ダゲレオタイプはアメリカヘ渡ることになる。1839年春の弟へあてた手紙で、彼が熱烈な推奨の文面を綴ったことがきっかけになり、その9月後半にイギリスから郵便船でニューヨークに最初に届けられた手引き書や説明記事に大きな関心が集まった。10月の初めまでには新聞で詳細な情報が伝えられ、モースや他の者たちもダゲレオタイプの制作を試みることができるようになった。彼は高名な科学者ジョン・ウィリアム・ドレイパーと一緒にそれに取り組み、マシュー・ブレイディをはじめとする人たちに教示を与えている。ただし彼自身がつくったという画像はほとんど現存していない。 アメリカでのダゲレオタイプの急速な発展をもたらしたもうひとつの要因は、1839年11月にフランス側の代理人フランソワ・グーローが機材を販売する権利を携えて渡米してきたことにあった。彼はダゲール撮影の画像を展示しつつ、デモンストレーションを行い、開催地の都市ごとで関心を呼び覚ました。ただしアメリカの人々は結局、ダゲレオタイプの制作のために権利を買うとか、正式な認可をへた機材を使用するとかいった必要性を認めなかったのではあるが。ヨーロッパと同様に、技術の進展は肖像の分野を中心としてすすんでいくが、歴史的な、また同時代のモニュメントや建築物をとらえたイメージにも、明らかに進歩が見られた。
1839年10月に彫版画工ジョゼフ・サクストンが、フィラデルフィア中央高校の倉庫と鐘楼を撮影したごく初期の画像では、使用機材が原初的で技術も実験段階にあったため、ジョン・プラム撮影の1845、46年の《首府の建築物》やウィリアムとフレデリックのランゲンハイム兄弟が1844年に撮ったフィラデルフィア民兵に占拠されるシラード銀行の眺めと較べると、輪郭描写がまだあまり明確ではなかった。プラムは小さなダゲレオタイプの王国をつくりあげ、やがてそれを失っていく夢想家的な気質をもつ起業家であり、その主な関心は肖像に寄せられていた。一方のランゲンハイム兄弟はドイツの出身で、ドイツ製ダゲレオタイプ・カメラやカロタイプ、さらにはガラスを用いる写真術を導入し、アメリカの写真技術を発展させようとしている。彼らと同様に、ボストンのジョン・アダムズ・ホイップルも、この表現媒体の最前線を押し広げていくことに関心を払った人物である。ホイップルは良質な肖像の制作をパートナーとともに行いつつ、人工光でのダゲレオタイプ撮影に取り組んだり、アルビュメン(卵白)を塗布したガラス・ネガ上に画像を得る実験を試みてもいる。彼は天文写真に特別の関心を注ぎ、3年におよぶ実験の末、1851年3月にダゲレオタイプで月を撮影することに成功した(図17)。ランゲンハイム兄弟とホイップルは、ダゲレオタイプの短所をよく知っていた少数の部類のアメリカ人たちだった。他方、大衆は彼らとちがって「記憶をもつ鏡」7)の見かけの忠実度に心を奪われており、その限界を遺憾には感じていなかった。




[タルボット・プロフィール]
[ダゲール・プロフィール]