初期の時代----技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875
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メルツィ荘(図18)
カロタイプ

写真術はほとんどの場合、まずネガ像を得て、そこから明暗と左右の反転を正常にしたポジ像をほぼ際限なく複製していくことのできる技法として理解されてきている8)。同じネガをもとにしてより拡大した画像をつくりあげることも可能であり、また支持体(紙、布、プラスティック)の軽量さゆえに、本やアルバムの中へ挿しはさんだり文書に添付することができ、郵便で送ったり額に入れて壁に掛けることもできる。写真というものにそなわったダゲレオタイプにまさる物理的・実用的な利点は明白であり、それだけに、最初に発明が公表された時点でネガ/ポジ法があからさまに二番手の地位にあるものと受けとめられたのは、信じ難いことに思われるかもしれない。登場のタイミング、生産技術の問題、美学的な評価基準、社会的要因などがからんでいて、その理由は錯綜している。
タルボットは最初、紙の上にとらえた画像をフォトジェニック・ドローインクと呼んだが、それが発明者本人により公開されたのは1839年2月、ロンドンにおいてであり、ダゲールの発見の知らせが海峡を超えて届けられたその直後であった。ほとんどの人々には、当時複製ということの潜在的価値は、いたって抽象的にしか受けとめられなかったらしい。ネガからポジヘの転写という技法の実際は、むしろ煩わしいものと見られたのである。しかし、何より大きかったのは、タルボットの生み出した画像の最初の頃の状態が、ダゲレオタイプのもつ細部に富んだイメージに較べて不明瞭で、タルボットのもっとも熱心な支持者らにとってさえ見劣りがしたという事実だった9)。そのうえ、フランスの発明は政治力をもつ科学者の支援により政府からの公的な支援を受けたけれど、一方のタルボットは科学や特許取得に関連する諸制度が流動的だったイギリスの状況下にあって、技法の改善に取り組んだり、商業的な利益を得ようと試みたりしながら、独力で発明後の舵とりをしていかなければならなかったのである。タルボットは貴族階級の出身で、大学教育を受け、その当時のもっとも進歩的な考え方を身につけていた。この多才な科学者は、化学だけでなくそれ以上に天文学、数学、光学にひきつけられ(どれも当時、専門分野として完全には分化していなかった)、言語学や文学にまで関心を寄せていた。科学に生きる人間であると同時に、いくらかロマンティックなところのある非社交的な人物でもあり、旅に出ることが多かった。その彼が、カメラ・オブスクラの半透明のすりガラス上にあらわれてくる映像を永続的に固定するという着想を得たのは、1833年のイタリアヘの新婚旅行中、スケッチを試みていた折のことだった(図18)。
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植物標本(図21)
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レイコック・アビイの格子窓(図20)
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テーブル山のプラット・クリップ・ゴージュの真上から望むケープタウンとテーブル湾(図19〕
イギリスに戻った後、彼はこのアイディアに取り組みはじめ、化学的処理によって感光性を与えた紙の上に植物の葉をじかに置いて露光し、その形を転写することを、まずどうにか達成する(図21)。 ついで1835年の夏、小型の特製カメラに薬品処理を施した紙を装填して、代々受継いできたレイコック・アビイの自邸をとらえた数多くのネガをつくり出すことに成功した。格子づくりの窓を写した小さな郵便切手サイズの画像(図20)もそのひとつであり、そこには、菱形の窓ガラスの数がかぞえられるくらいの明瞭さが生じていた。ダゲールと同じく、タルボットも初めは、光がハロゲン化銀層へ及ぼす作用を停止させるのに普通の食塩水を使用していた。しかし、両者はともにこれを次亜硫酸ソーダ(ハイポのこと。チオ硫酸ナトリウムという学名をもつ今日でもそう呼ばれている)に改めた。すると、未感光で残った銀塩をすっかり除去することができるようになり、画像の安定性がより満足できるものとなったのである。このようなハイポの特性は、1819年にジョン・ハーシェル(のちにナイトの爵位を受ける〕により発見されていた。ハーシェルは著名な天文学者・物理学者で、タルボットの友人であり、こうした事実を二人の発明者に教示したのである。写真化学への彼の貢献ぶりには、科学における卓越した能力と公平無私な精神があらわれている。ハーシェルは、南アフリカで数年間にわたって独自の研究を進めていた時、自ら光学器具を用いてドローインクを描いており(図19)、その後1838年に帰国してから、イギリスとフランスですすめられていた光の作用によって画像をつくり出す実験のことを聞きおよんだのだった。彼自身、さまざまなハロゲン化銀やその他の化学物質の効果をさぐる研究を意欲的に継続することとなり、その結果見出された中には、サイアノタイプ(青写真)の材料となる第二鉄塩も含まれていた。ハーシェルから受けた用語法に関する示唆が決め手となって、タルボットは、フォトジェニック・ドローインクのかわりに光によって描く術を意味するフォトグラフィという、より広い意味合いをもつ名称に重きを置くようになった。ただしこの語を最初に使ったのは、ブラジルのエルキュール・フロランスとドイツの天文学者ヨハン・H.フォン・メドラーだったとされているl0〕。ハーシェルはまた、技法の根幹となる明暗の反転した像とそれを再反転させた像とに、ネガティヴとポジティヴという呼び名を与えた。もし彼が望んだならば、たぶんタルボットと同時期に、自らの技法で特許取得も可能だったろうが、彼の関心は別のところにあった。知的活動をオープンにしているその姿勢は、もっと秘密主義的なタルボットとは対照的である。それでも両者はお互いを尊敬し合っていた。自らの才能が導き出した実験の成果を分かち合うことに、ハーシェルは全く寛大だったのである。ダゲールの発見の報告が1839年1月に出たことに動かされ、タルボットは1837年以来ほとんど実験を中断していた自身の技法の公開に踏み切った。

[タルボット・プロフィール]
[ダゲール・プロフィール]