時代をどう読むか、ということが、カリキュラムとどうつながるのか、もしくはつながりが見えないけど、という話だったら、たしかにそれは「?」ですね。でも、学生とは毎週話し合うわけですから、当然僕の感想や批評性にはそれは否定しがたく出てくる。
具体的にいうと、つまらん壺、皿や前時代的の魅力のないものを無頓着になんかやったら、「いまの時代とどんな関係がある」と、批判してかかるから、学生は、時代ってものを考えねばならないんだな、となってくる。それから、時代を意識し出すのが、いつごろからかという質問ですけど、具体的には、70年初めアメリカから帰ってきた直後そういう類の陶教育の必要を感じたから。
アメリカに行く前の僕は、人間国宝達の美意識と大差なくて、400年前の桃山・江戸の美意識をいまの日本らしさにも転用できる、それが日本らしさの核になるという認識のもとで、やきものをいじくっていた青年でしたね。
ところがアメリカに行ってみたら、アメリカのやきものというのは、ヒッピーとベトナムと、とにかく何かそういう20世紀の彼らがつくり上げた世界に向かって、その文明と、その長い歴史を背負っている土とを向かい合わすとどうなるか、ということでしたから、そこで僕はカルチャーショックを受けまして、ああ、僕はタイムマシーンに乗って400年くだらねばならないと自覚したんです。結果はそう簡単ではなくて、スランプになってしまったんですけれども、いずれにしてもそのときから、文明の構造とのずれをそのままその国らしさと考えることの時代錯誤というのを考えました。
そういう意識を持った日本のつくり手というのはほとんど皆無だったから、そういう場所を大学教育のなかに置くことができれば、未来を拓けると思った。だから、多摩美の陶コースがスタートしたときからその視点は持っています。
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