トップ多摩美の陶教育、こう考えて実践(目次)> 3. 技術の意味、素材の意味[3-3]
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3. 技術の意味、素材の意味
 3-3. 固定観念を否定してこそ、活力が
■ 冨 田

どなたか学生さんで、いかがですか。戸惑いがたくさんあるという話も、樋口さんからうかがいましたが・・・。では学生さんの代弁者ということで、元学生の齋藤敏寿さん、お願いします。

【多摩美の陶作品・11】
  ■ 齋 藤

 いまの流れからははずれてしまうかもしれませんが、聞いてみたいことがあります。中村先生は、いまの学生はやきものに対する固定観念がないとおっしゃっていた気がするのですが、私はいま筑波大学で教えていて、以前には高校生などにも教えていた経験上、やきものとか陶芸というと、やはり器だという固定観念を、皆すごく持っているんですよね。知らないということもあると思いますが。

 僕は器をつくってもいいと思っているのですが、授業で現代陶芸などのスライドを見せると、「陶にはこんな可能性もあるのか」とか、今回のシンポジウムを聞いていて、私も陶の可能性とかを注入された学生なのだなと思ったのですが、いまの多摩美に来た学生のなかにも、いえないけど、本当は器をつくってもいいと思っている人がいる、とか。わかりませんが・・・。
 固定観念を持っているものを壊していくという感じなのではないでしょうか。その辺はどうなのでしょうか。

  ■ 中 村

 そんなにね、僕の方に引っ張っていこうなんて頑固なずうずうしい気持ちはゼロです。斉藤君は在学中、そういう風に受けとめていたのですか。文句もいわないで。
 かつて、陶が油画科にあったときは、工芸ではないという大前提があったから、油画の学生に、立体とか土も面白いと思わせたいというのが、まずありましたね。
 ただ放置しておくと、デパートの美術工芸品売り場のものを無造作につくり出すから、それだけはさせまいとして、こういうカリキュラムになりました。

 ところが、こんど98年から工芸学科としてスタートしたでしょう。そのとき新1年生に突き上げられたんですよ。こういう課題ばっかりで、いつ器をつくらせてくれるの、ということでした。工芸といったら器でしょ、と。
 でも、学生が工芸といっているものは、せいぜいデパートの美術工芸品売り場かどこか、あるいは引き出物とか、自分の家の台所にある器を工芸と思っている程度だから、それじゃぁ困ると。美術大学まできて、そんなもの、ここは町のやきもの教室じゃない。
 それで1年、2年と、とにかく揉みほぐす教育をする。3年になったら好きなだけ器をつくっていいというふうにしたんですよ。そしたらね、1、2年で揉みほぐして、いってみれば、やきものや土にはいろんな可能性があるんだということを――当然、大学に入ってくる生のままの若者は、そんなこと知っているわけがない――こちらはプロですし、よくその世界の状況を知ったうえで説くわけでしょ。

 そうすると、さぁ皆さん器やっていいですよと、こういっても、もう器はつくりたくない、つくりたい人だけの選択にしてくれという学生が大半で、あくまでも器をやるといったのは、20数人のうちで2人ぐらいだったかな。つまり、器とは別の面白さを感じ取ったり、もっとかっこよくいえば、時代との関係でこういう造形ができると知った若者は、器どころか、もっとほかに面白いものがあるということに目覚めたんだと、僕は見ましたね。その後、器は1年でやらせない、3年でということで、ここ何年かやっています。

 入学時不満分子が必ずいるんですけれども、3年になると黙るんですよ。いろんな可能性――それこそ基礎――を知ると、器でなきゃならんという根拠は、じつに曖昧なもので、手工業の時代から工業時代、高度工業化っていう流れからいっても、若者は器にさほど執着がなくて当たり前なんじゃないかという思いをしています。

  ■ 冨 田

 ちょっとお尋ねしたいんですけれども、時代と関わるとか、時代を読むとか、それから、自分なりの答えを見つけるとか、そういった陶コースのテーマにもなっていることというのは、大きな広がりを持っていることですよね。

 つまり、器だとだめだとか、インスタレーションだといい、あるいは、やきものだからいいとか、逆に、やきものではなく新しい素材だからいいとか、そういったジャンルや表現形式の問題とは、直接は関わらないことのような気がするんですが・・・。

 それとも、実際に学生をご覧になっていると、器をやる学生は、やっぱり時代を読めていない学生、ということになるんでしょうか? そのあたり、もう少し細やかなところで、お話をうかがってみたいんですけど。

  ■ 井 上

 3年生の器の課題は、中村先生が担当されているんです。じつは7、8年前工芸学科新設の折、中村先生が、器の教育をどうしようということをしきりとおっしゃるので、僕は戸惑ったんですね。

 僕個人の意見では、器は否定しないけれど、しいてそこまで特別なカリキュラムでっていうふうには感じてはいなかったんです。今後、また検討しなければならないとは思うんですけれども、若い人が、陶芸だから器っていうのは、その分かりやすさだと思うんですよね。先が見えやすいとか、結果がわかるとか、自分がやっていることの実感が持ちやすいとか。

 でも、多摩美で1、2年生を揉みほぐすというのは、それをわかりにくくしているわけですよ。それで自分が悶々としてくると、最初に答えみたいに思っていたものが、飛んでいっちゃうのかもしれません。本当は、そのなかで自分で見つけていく落ち着き先のなか、自分自身の問題設定のなかに、機能や器があるというのは、いいはずなんです。そのとき出てくる、機能を持ったものというのは、いまでどこにもないものになるはずだと。ただ、残念ながらそういう前例があまりないんです。

  ■ 冨 田

・・・ということでした。器をやりたい学生さん、よかったですね。次回は学生さんからも、ぜひお話を伺いたいと思いますので、皆さん覚悟を決めてご参加くださいね。では、そろそろ時間になりましたので、きょうはこれで終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。

  ■ 井 上

どうもありがとうございました。

  ■ 中 村

何よりも参加下さったことに感謝しています。遠いところ暑いところありがとうございました。

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