豊福です。私が芸大の常勤の助教授になったのは、2001年です。それから、教育ってものを少しまじめに考えなければいけないと思いまして、きょうは、すごく興味があったんです。
東京芸大は、先程の中村先生のお話のなかでは、多摩美の対極にあるような教育をやっているところといわれていましたけれども、実際、ロクロ中心の課題の出し方をしています。私自身も学生だったころは、当然のことのように毎日、ロクロを挽かされて、でもじつは反発を感じていたんです。なんでロクロばかりしなきゃいけないんだろう――その疑問を持ちつつ、ある日、ロクロを挽くのをやめたんです。何の技術もってない者が形をつくるのに、自分でいろいろ工夫して、石膏で形をつくるっていうことで、苦労して・・・。
そのとき、藤本能道先生が、「お前は何を考えているかよくわからんね、何でこんな苦労するんだ」というふうなことをいわれた。でも、それで得たものはすごく多かったと思うんですね。いまでも、課題は出すけど、ロクロの挽き方は、先生たちの見よう見まねで覚えていく。こういう課題を出したから、これができるようになるとか、うまくなるとかっていうことはありえないんですね、自分で発見するものがないと。
つまり中身としては、中村先生がおっしゃるほど、私は変わらないと思います。ですから、先程からお話のあった多摩美の陶の教育の仕方は、素直にいいなぁと思いました。
ただし、毎週毎週違う課題が出て、それをぜんぶ形にしたというのが、不思議ですね。
というのは、いま芸大の学生に出している課題は、短い期限を区切っていなくて、1年を前期と後期2つに分けて2回です。そこには、毎日やらないとできないくらいの内容が、もちろんありますけれども、やらなきゃやらないでいいんです。出席を取るわけでもないですし。
ただ自分がそこで何をやりたかったか、この一個のものに何を表現したかったかということをきちっと説明できれば、それで我々は満足します。それからもう一つ、同じ課題をずっとこれからもやられていくのか、どういうふうに転換していくのか。
例えば、大事なのは素材ですよね。1つの素材にこだわって教育していくことが、本当にいいのか、それぞれの素材を乗り越えたところでの造形性というものを考えていくことも必要なのかなと、私はちょっと思っているんですけれども・・・。
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