このタイトルは、正しくは「教室から見た」工芸を取り巻く状況、といったほうがいいかもしれません。ですから、工芸に関して、断定的な意見を出すほど明確な考えはないのですが、1996年、イギリスに1年間いて、むこうの美術を見たとき――ダミアン・ハーストが、牛や羊を半分に切って見せてたあの時期なんですけど――当時はビデオ的な作品がすごく多くて、展覧会を見に行くと、カーテンのある暗い部屋に入ってビデオを5分くらいながめるというものが多かった。映し出されている映像は、例えば日常の風景が映しだされていてるだけの、どこにポイントがあるのかわかりづらいものが多かったです。
そのころ、これを美術というなら、僕のやりたいのは美術じゃないかもしれないと、素直に思いました。美術の看板を降ろしてもいい、と。じゃあ、どんな看板挙げようか、自分でリアリティのある看板は何かなと思ったとき、「工作」という言葉が出てきました。図画工作の「工作」。
そう考えると、小学校のときのウキウキしながらつくったあの実感は、自分には欧米の作家がギリシャ文明に感じている(であろう)リアリティに負けないくらい確かなもので、そしてその延長線上で工芸や美術を考えてみるとしっくりくる。その延長への接点になるのは、手でものをつくるという、あのウキウキとした感じ。そのウキウキ感を増幅させていきていくために私には美術や工芸があります。
いま工芸とか陶芸とか、そういう言葉をもう一度整理していかないと、陶でつくるから皆、陶芸だというのは無理がきているような気がします。どれが上下というよりは、正しい陶芸や正しくない陶芸や、いろんなものがあって、みんなそれぞれが特殊だということ、例えばいまの格闘界のようにいろんな団体が存在しているように、ああいった状況を、見るほうもつくるほうも、もっと意識していいのではないかというのが、いまのやきものや、工芸をめぐる僕の感覚です。
|