トップ工芸を取り巻く状況と、多摩美陶プログラムでのカリキュラムの構成(目次)> 2. 陶プログラムを取り巻く現状[2-3]
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2. 陶プログラムを取り巻く現状
 2-3. いま、器を手がけることの意味
■ 椿

 玉川大学の椿敏幸と申します。多摩美の陶教育のほとんどのものが、1年生2年生のカリキュラムに集約しているうえに、そこでできあがった作品の、スケールにしても技術にしても新鮮さにしても、非常に完成度の高いものであることに感動いたしました。

 ところで玉川大学は、多摩美のような単科大学とはまた違って、総合大学のなかに芸術学部があり、その一選択科目として陶芸があるわけです。授業のなかでは、僕がロクロのデモンストレーションしたり、タタラでお皿のつくり方を見せたりすることもあって、まあ、それはあくまでも紹介というか、ナビゲーターとしての行為なのですが・・・。

 ただ、大学を出たら、一人のアーティストとして生きていくため、あるいは日々の糧を得るために、カルチャーセンターや陶芸教室で教えることが必要になってくる場合もあるじゃないですか。大学教育における工芸教育、という位置づけからすれば、そんなときに必要になってくるお茶碗づくりだとか、最低限の技術だとか、そのへんを考慮しながら授業内容を考えることもあるわけです。

 そこで、ちょっと話題が戻るかもしれませんけど、やきもののなかでの器の存在に対しての多摩美のスタンスをもう一度、お聞かせいただけたらと思います。

  ■ 中 村

 器については、超ベテランの、かつてやきもの屋の倅であった僕が対応しているんですね。なぜ器のカリキュラムが、最初ではなく3年になってからかということからいいますと、工芸学科へ入ってくる学生たちは、漠然としか工芸を考えていませんよね。だけど、彫刻ではなく工芸科へやってくる。
 そのとき、こちらがいちばん恐れるのは、時代遅れになったデパートの美術工芸品売り場のものを工芸だなんて思って入学してくることです。やきもの屋の倅や娘が入学してくる確率もどんどん高くなっていますしね。

 さっき尹先生がいった「揉んでほぐす」ということからいうと、固定概念をまず揉みほぐす。何が基礎か、をやろうとしているわけですから、少なくともそれを終えて、デパートの売り場とは違った工芸があるという柔らかさを身につけたうえでないと、デパートの工芸を最高のものだと思って、人間国宝の後継者になったんじゃ多摩美独自性が泣く、というところがある。

 7年ほど前、工芸科の最初の1期生に、例の「揉みほぐす」カリキュラムをやっていたら、何で器をつくらせないのか、とか、私はうちのランプをつくりたくて多摩美にきたんだ、とか、まあそういう意見がすごく出て面白かったですね。
 それで、わけをいって、揉みほぐした挙句、3年生になったら器をやるんだよという。そしたら意外だったのは、3年生になってみると、もう器はやりたくないといい出す学生がほとんどだったんですよ。

 その流れは、いまも変わっていませんね。2年間揉みほぐすと、器が興味の対象からどんどん遠くなっていく。作品を見ても、器はじつに下手なんですよ。揉みほぐしたことで、先ほど天野さんがおっしゃったくらいのレベルまで到達しておきながら、器をやると、それがとたんに低くなるんですね。1学年20数人いるわけですから、そのうちの何パーセントかは、器の新機軸をやろうとする作家になってくれてもいいと、こちらは思っていますけれども、なかなかそうはならない。

 それは、ひとつには、時代の流れのなかで、器というものをあえて手でつくることの意味が、どんどん薄くなってきているということ――手仕事が社会を支えていた時期、やきもの屋といえば社会を支えていたわけですが、それが工業時代、工業化時代になって、機械にまかせ、デザイナーにまかせる流れになってきた。そのなかにあって、若者は器が下手になる、関心が薄れていくというのは、ある意味で、時代の流れに対応しているのかなあというふうに読んでいます。

  ■ 冨 田

 学生さんからはいかがですか。

  ■ 小 駒

 研究生の小駒といいます。4年間、学部で多摩美の陶を学んで、いまは研究生です。
 私がここで学んでいちばん印象的だったのが、1年生の頃、1週間1課題の怒濤の忙しさです。何より大変だったんですけれども、それに取り組むことで、陶に関係するかどうかわからないんですが、すごくフットワークが効くようになって、瞬発力がついたということが、いえると思います。

 それから、先生方がすごくていねいに講評してくれて、自分で失敗だと思ったものに対してですら、多くの言葉を出してくれるのには、びっくりしました。苦しまぎれに出した変なものに対しても、これにはまだ可能性がある、というようないい方をしてもらって、私のなかでは、すごい発見でした。

 ちょっと話が変わりますが、家族や知り合いの人に、多摩美で陶やっているんですというと、陶をやってるんですというと、「やきものやってるんだ、じゃあ器をつくってるんだね」といわれて、逆に多摩美の陶を知っている人に同じことをいうと、「多摩美の陶なんだ、じゃあ器はやっていないんだね」といわれるんです。

 でも、私にとっては、そのどちらにも反発心を抱くんですよ。なぜかというと、立体作品も器も、私にとってはどちらも表現のひとつだと捉えている部分があって、そういうふうに考えられるようになったのは、1週間1課題でがんばっていたころの、これは失敗作とはいえない、これにも可能性があるんだ、というような、そういう陶に対しての捉え方の幅がもてるようになったからかな、と感じます。1年生のカリキュラムを見たとき、最初は何だか幼稚な感じがしたんですけれど、あとあと振り返ってみたら、こういう効果があって、よかったんだなという感じです。

  ■ 井 上

おほめいただきましたね。

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