器については、超ベテランの、かつてやきもの屋の倅であった僕が対応しているんですね。なぜ器のカリキュラムが、最初ではなく3年になってからかということからいいますと、工芸学科へ入ってくる学生たちは、漠然としか工芸を考えていませんよね。だけど、彫刻ではなく工芸科へやってくる。
そのとき、こちらがいちばん恐れるのは、時代遅れになったデパートの美術工芸品売り場のものを工芸だなんて思って入学してくることです。やきもの屋の倅や娘が入学してくる確率もどんどん高くなっていますしね。
さっき尹先生がいった「揉んでほぐす」ということからいうと、固定概念をまず揉みほぐす。何が基礎か、をやろうとしているわけですから、少なくともそれを終えて、デパートの売り場とは違った工芸があるという柔らかさを身につけたうえでないと、デパートの工芸を最高のものだと思って、人間国宝の後継者になったんじゃ多摩美独自性が泣く、というところがある。
7年ほど前、工芸科の最初の1期生に、例の「揉みほぐす」カリキュラムをやっていたら、何で器をつくらせないのか、とか、私はうちのランプをつくりたくて多摩美にきたんだ、とか、まあそういう意見がすごく出て面白かったですね。
それで、わけをいって、揉みほぐした挙句、3年生になったら器をやるんだよという。そしたら意外だったのは、3年生になってみると、もう器はやりたくないといい出す学生がほとんどだったんですよ。
その流れは、いまも変わっていませんね。2年間揉みほぐすと、器が興味の対象からどんどん遠くなっていく。作品を見ても、器はじつに下手なんですよ。揉みほぐしたことで、先ほど天野さんがおっしゃったくらいのレベルまで到達しておきながら、器をやると、それがとたんに低くなるんですね。1学年20数人いるわけですから、そのうちの何パーセントかは、器の新機軸をやろうとする作家になってくれてもいいと、こちらは思っていますけれども、なかなかそうはならない。
それは、ひとつには、時代の流れのなかで、器というものをあえて手でつくることの意味が、どんどん薄くなってきているということ――手仕事が社会を支えていた時期、やきもの屋といえば社会を支えていたわけですが、それが工業時代、工業化時代になって、機械にまかせ、デザイナーにまかせる流れになってきた。そのなかにあって、若者は器が下手になる、関心が薄れていくというのは、ある意味で、時代の流れに対応しているのかなあというふうに読んでいます。
|