2京都市立芸術大学

2-1総合基礎

秋山

京都市立芸術大学の開講の経緯、目的をお話するようにとのことですが、正直いうとよくわかりません。京都府画学校からスタートして120年余り、いろんな変遷はあったようですけども、戦後1950年に新制大学としてスタートする時点で、陶磁器専攻が開設されたわけです。そのとき、なぜ教授に招かれたのが富本憲吉だったのか。富本は、戦前は東京で教えていて、戦後は故郷である奈良県安堵村に戻る。そして、奈良と京都を行き来しながら、いろんな工房を渡り歩いて活動を再開した。その時期と京都芸大の開設が重なっているわけです。一説によると、その当時の学長であった長崎太郎が富本を呼んだと、ちらっと聞いたことがあります。加守田章二を塚本製陶所に紹介したもの長崎太郎だったと思うんですけども……。

その後、陶磁器専攻の歴代の教員は、富本からしばらく遅れて、アシスタントの近藤悠三先生、それから藤本能道先生、次に陶磁器専攻の一期生だった小山喜平先生、近藤豊先生、それから清水九兵衛先生と続きます。

スタートに関わった富本憲吉が、やはり、その後の流れに影響を与えたんじゃないかと思いますし、それぞれの先生の中には、師弟関係にあった方もいらっしゃるわけですけども、そこで繋がってきているものというと、何があるんだろう。敢えていうと、多様性を確保するということかもしれませんね。

ぼくが学生として京都芸大に入ったのは、1972年ですが、その時のスタッフを年齢順にあげると、八木一夫、藤平伸、小山、近藤、甲本章人。それぞれお仕事の方向性はまるで違うし、考え方も違うし、同じことを尋ねてもまったく違うことをおっしゃるんです。そういう面白さを自分自身が経験して、今度ぼくが教える立場になったときにも、やはり意識したのは「多様性の確保」ということですよね。

システム面での大きな変化といえば、1970年の大学改革ですね。それまでは各専攻ごとの定員があって、学生は各科ごとの試験で入ってきました。ところが1970年の大学改革で、ガラッと変わり、共通入試になりました。いまは美術、デザイン、工芸の3つの科で、まったく一緒の試験をしています。

京都市立芸術大学 学生作品 京都市立芸術大学 学生作品 京都市立芸術大学 学生作品 京都市立芸術大学 学生作品 京都市立芸術大学 学生作品

冨田

採点も?

秋山

そうです。

井上

担当しない学生の採点までするということですか。

秋山

そう。その学生が、デザインに行くのか工芸に行くのか、まったくわからない状態で採点する。

島田

志望学科の書き込みは?

秋山

結果としてわかるだけです。

右澤

それで入学したら、共通のファンデーションを教えるわけですか。

秋山

ええ。広い意味での美術の「基礎」、技術的な意味ではなく、美術とは何だ、ということを考えるようなカリキュラムがあるんじゃないかということで、教員も手探り学生も手探りです。まず1年目は、「総合基礎」という、全員が一緒くたの授業を前期にやります。大学改革当時の考え方は、たぶん、日本画とか洋画、彫刻、版画、各種デザイン、工芸といろいろある、しかしそこには共通するひとつの考え方があるんじゃないか、共通の美術の理念というものがあるんじゃないか、ということだったんでしょうね。ですから、例えば、グランドに1週間くらいかけて井戸みたいなのを掘ってみたり。

北澤

関根伸夫が穴を掘ったのが1968年ですね。

秋山

たぶんその影響があった気がします。

井上

でも受験時に志望は決まってるんでしょう。

秋山

決まってるんですけど、試験は一緒。その点は、1970年の大学改革から現在に至るまで、あまり変わりません。1年次の前期は「総合基礎」ということでいろんなことするんです。

井上

対象人数はどれくらいですか。

全部で130人。

2-2工芸基礎

冨田

「総合基礎」と平行して自分の専攻に関わることは……。

秋山

ありません。一年の前期はこれだけです。そのあと、工芸科の場合は、後期に「工芸基礎」をやります。工芸の中の陶磁器、染織、漆工の3つの専攻が、それぞれガイダンス的な授業を行うわけです。

井上

実作するわけですね。

秋山

そうです。後期を3等分して1ヶ月ずつ。この授業の名前が「工芸基礎」というわけなんですが、実際にはガイダンス的な授業です。「工芸基礎」という名前に即した内容にすべきじゃないかという議論もあるんですが、難しいですね。工芸って何だっていう話になっていくと、それぞれの専攻の足並みも揃わないし。

井上

逆にいうと、陶磁なら陶磁、漆なら漆で、それぞれ内容の独自性は保たれているわけですね。

秋山

そうです。学生は2年次から自由に選択できるわけですから、その選択の判断基準には役立っている。でも、それだけじゃだめなんじゃないか。入門的な授業であっても、広く工芸を考える機会にしたいという思いがあるんです。しかし、具体的に何ができるかというと、なかなか思い通りに進められないというのが実態かなあ。

冨田

陶磁器専攻の「工芸基礎」は、具体的にはどういう内容ですか。

秋山

えっとですね、担当の教員によって毎年違っていまして……。

この学年はこんなことやったけど、次の学年はまた違う。

秋山

それはありますね。うちの場合それぞれ随分違うんですよ、考え方が。

冨田

最近は、どんなことを?

秋山

近年は、わりと共通認識的なものを持ち始めているんですけどもね。だいたい3つの課題があります。一つは、何か具体的なものを、とりあえず粘土でつくってもらう。そのとき、焼ける、焼けないとか、やきものの仕組みみたいなことは気にしません。それから、もう一つは、やきもの的な土の扱いとして最も取っつきやすいであろう、手捻り。手捻りで円筒をつくって、円筒を基本にする造形を自由につくりなさい、と。さらにもう一つは、焼くということについて興味をもってもらいたいということで、焼成実験。小さな容れものをつくって、その中に何か入れてとにかく焼いてみよう、と。まあ、そういう基礎を終えて、2年次から専攻に入るわけです。

2-3選考を選ぶ

田嶋

専攻を選ぶ時点で、学生数が偏ったりとか。

秋山

ええ、もうハラハラ……。

井上

希望者がゼロだったこと、ありますか。

秋山

幸いなことに、それはないです。でも、去年はわずか3人でした。これまでは8人から10人くらいのあいだで推移してきて安定した状態でしたから、心配していなかったんですけども、4人とか3人というのはちょっと……。

島田

工芸科全部で何人ですか。

秋山

30人です。

冨田

陶磁器を選ぶ学生が減っているということは、逆に希望者の増えた専攻があるわけですよね。どこですか

秋山

漆工科ですね。かつては長い長い漆工の「冬の時代」がありました。だから漆工研究室は、専攻への入口でもある「工芸基礎」を重視されているように思います。今はたぶん、時代の空気というものが、漆に向いているのかな。つまり、二十歳になるかならないかぐらいの若い人にとって、やきものの将来に何が見えるかってこと考えると……。

でも、だからといって、漆に何かヴィジョンがないと風は吹かないでしょう?

秋山

アクセサリーの世界だとかインテリアとか、やきものよりも、もっとファッショナブルなものがありますよ。

樋口

そうそう、アジアンテイストの雑貨とか。

島田

芸大も一緒です。いま一番人気は漆です。

秋山

日本趣味回帰みたいな空気がありますよね。

島田

学生にとってみれば、漆は小さいスペースでできるしねえ。

秋山

できます。個人でできますよね。

島田

専攻分けというのは、やはり京都芸大も東京芸大も大問題ですよ。むかし、ぼくの頃は専攻自由でしたから、希望のところへ行くことができたんですよ。当時、専攻によっては行く人が足りなくて学生0から2人の時が続きました。陶芸も2人と言う時が有りました。それはよくないからっていうことで、10年くらい前から定員制にして30人の中で5、6人ずつに振り分けることにした。それも成績順だという話になったら、1年生は皆勤賞ですよ。

田嶋

いまは、染織でも、ファッションのイメージをつけると、たくさん学生が集まるであろうとか、金属工芸でも、ジュエリーとかアクセサリーとか、一般的にわかりやすく受け入れられやすいイメージに持っていくように、どこもやってますね。陶芸が一番、ジジ臭くて応用がきかないのかなあ、なんて。

2-4陶芸基礎

秋山

さて、それで京都芸大のカリキュラムなんですが、2年生からは「陶芸基礎」です。前後期通して1年間の基礎なんですけども、前期はおもに轆轤です。

井上

この場合は、どなたが……。

秋山

つきっきりで。

井上

みんな座らせて、やれーっていって?

秋山

そうです。でもやるんですよ。やらされることに慣れている学生が多いというか、まじめな学生が多いもので。今日中に何個挽けるようにしようっていったら、夜遅くなってもやってますから。

井上

具体的な目標みたいなものを見せると、学生がすごくよく動くのは、わかります。達成感もあって、人と比べやすいとか。

秋山

轆轤から始めて、いわゆる「汲み出し」、それから「小皿」。そこらへんで前期は精一杯です。もちろん、そこに絵付をほどこしたりしたり、釉薬を掛けて本焼成したり、やきものの仕組みとか、基礎的なものを身につけるわけです。後期になったら、今度はきちんとした手捻りをさせる。ここ何年かは「自然形態」、野菜でも何でもいいから自然形態の具体的なものを手捻りでつくらせていますね。さらに石膏型の型つくり、それを用いた成形もやります。

次の3年と4年は「陶磁器1」、「陶磁器2」、「陶磁器3」という3つのなかから半期ごとに自由に選んで行う授業です。学生には、卒業時までにできるだけ複数の授業を履修するようにというアドバイスはしていますけど、この「陶磁器1、2、3」というのが、学部での授業の柱になりますね。 たとえば「陶磁器1」では、機能性や量産性を踏まえながら暮らしへの提案を試みます。実際には食器が中心になりがちなんですけれど。

まあそれに限らず暮らしへの提案を含むやきものづくりですね。

井上

担当の先生は決まっているわけですか。

秋山

いえ、しばしば担当替えがあります。

井上

えっ、秋山さんが食器やるの?

秋山

ええ、そのような年もあります。

井上

秋山さんの食器の授業を受けた学生もいれば、栗木さんの食器の授業を受けた学生もいる。それはそれで巡り合わせだなあ。

秋山

ぼくが学生の頃は違いました。八木先生はオブジェの部屋、藤平先生はデコラの部屋、近藤先生は伝統の部屋、甲本先生はクラフトの部屋。で、その部屋ごとの交流はそんなになかった。ほんとうはやっぱり、得意不得意ってあるわけですよね、教員の方にも。でも、教員たるもの全部できてあたりまえじゃないかという意見もありまして。

冨田

「陶磁器1、2、3」それぞれで、設備とか制作空間は共有しているんですか。

秋山

ええ、入り混じっています。できるだけ混ざるように、配置を考えています。

島田

指導にあたる時には、各先生、どういうふうに?

秋山

それが難しいんですよ。何かミーティングするときは別の部屋に担当している学生だけを集めてするとか、あるいは作品を移動して、とか。

北澤

それにしても先生が持ち回りで「陶磁器1、2、3」全部やるというのは、教員の訓練にもなってますね。文科省の意向もあるのかな。専門的な研究の教育よりも、やっぱり幅広くあれもこれもできるということが求められる。いまの文学部もそうなってきています。つまり大学のユニヴァーサル化ですね。

右澤

欧米の場合、美術を大学教育の中に位置づけた段階で、ファンデーションを学問的に体系化したわけですよね。そして、それを書き換えながら今日に至っている。もちろん各国が同じではありませんが。日本は、明治から近代が終焉を迎えるまではアカデミック一辺倒で、その後はかなり混乱気味の面があり、ある意味ではファンデーション教育が学問として成立していない。

2-5基礎教育体系

北澤

それは、ファンデーションが別組織でないと、成り立たない話でしょう。一般の大学でいえば、要するに、かつて教養課程というのがあった。それがいま、まったくない状況になっている。美大も同じような感じを受けますよね。基礎教育のカリキュラムがしっかりシステム化されていないのは、教員組織の問題もある。専門の教員なのか基礎教育の教員なのかによって、自覚がおのずから違うのに、それを一緒にして押しつけようとするからわけがわからなくなる。

島田

ファンデーション教育、基礎的な教育ということの意味がよくわからないんですけれど。

右澤

たとえば、アメリカなどでは既に1960年代までに、造型の基礎を体系だって学んでいく教育システムが整備されています。そのきっかけになったのは、第一次から第二次世界大戦にヨーロッパから亡命した美術家、デザイナーがアメリカに移住したことで、ヨハネス・イッテンに代表されるような、そのあたりの人の影響がアメリカ全土へ及び、ファンデーション教育が精度をもち形成されたのだと思います。それは今日でも教育的、学問的強度を確保しているのでは。

井上

油絵の例だと、たとえば、ぼくが学生の頃は、石膏デッサンが絵画表現の基礎だっていう考え方が強かったけど、いまはもう1年から自由制作だね。既に作家性を帯びた学生が、自分の好きなことをやり始めている。そういう点からすると、京都市芸大の「陶磁器1、2、3」という分け方はかなりオーソドックスですね、伝統的なもの、造形的なもの、クラフトっぽいもの、という。

北澤

島田さんは、基礎教育の意味がわからない、とおっしゃったけど、それはつまり、造形の基礎を教える必要がない、とお考えなのか、あるいは、そうではなくて、デザイン教育とは別種の「工芸基礎」というものがあるとお考えですか。

島田

工芸の場合、基礎といっても担当する先生によって意味が全然違っちゃうわけですから、体系化できるファンデーションとは何だろう、と。

右澤

アメリカの場合、芸術系の単科大学も沢山ありますが、基本的には総合大学の中に芸術学部があって、最初から各専攻としてコース分けをするわけではない。コース別の基礎ではく、基礎教育体系として美術の基礎である造型言語や理論を学んでゆく。

北澤

それはそうですね。陶芸の基礎といった場合、つまり基礎といいながらも、その教育自体が専門性をもっているわけだから。つまり、専門教育に入っている基礎教育を専門家が教える。あれもこれも専門家がやらされる。

冨田

もしも秋山先生が量産陶器の基礎課程を担当する場合、秋山さんなりのオリジナリティをもった課題を出してもいいんですか。それとも、研究室全体で決めるんですか。

秋山

研究室の先生は、それぞれの考えを持っていると思うんです。ただ、教育に対しての緩やかな共通認識があるということが前提ですね。ですから、課題にはぼくなりの視点を入れ込みたいと思いますけども、研究室全体で、それなりの了解は得ておきたい。

たとえばシラバスに伝統技法とありますね。ぼくは伝統という言葉使うのきらいなんですけど、要するに、既にある一般的な技術というものをテコにして、新しい物づくりにつなげていこうという考え方なんです。それは成形の技術かもしれないし、釉薬や絵付などの加飾の技術かもしれない、焼成の技術かもしれない。

島田

複製をつくるのですか。

秋山

そういうこともしています。まずスタートの時に、どういう方向で制作を進めたいか、こういう方向だったら、例えば李朝の白磁をまず模写してみようじゃないかとか、この染付をやってみたら勉強になるんじゃないかとか、話し合って具体的なことを決めていくわけです。3回生では、古典的陶磁器の再現をさせています。できるだけ、手に取って見ることのできるものを奨めているんですが、学生によっては、ギリシャの壺を模写したいとか。2年前には、板谷波山のお皿を、これやりたいという学生がいて困りましたけどね。基本的なことはいえるんですけど、どういう顔料使っているかとか、そういうことについては専門家に聞かなければわからない。京都の試験場を訪ねてアドバイスをもらいなさい、とか。

必ずしも全部が完全にはできないですよね。

秋山

ですから、ターゲットにしたものを正確に写すことが目的ではないわけです。そういう経験を通して、次の自分の仕事に役立てることがだいじなわけです。それを通して何を学びたいのかというところを、学生本人との話し合いの中で確かめることがポイントなんですね。

井上

技術的再現が目的ではないですもんね。結果全然別のものになるかもしれないですしね。

冨田

それでもいいわけですか。

秋山

ええもちろん。ただ、限られた時間の中で、いまできる技術と知識でもって、できるだけ近寄ってみる。

井上

複製は、入り口としてはやりやすいと思う。目標がはっきりしているから。

秋山

実際には、なぜこれを模写したいのか、結局、本人もよくわからないことが多いんですよね。

井上

わからなくてもよいと思うんですけど。なんでこれに惹かれたのかとか、こういうことやってみたいと思ったかとか、気がつくところの入り口としてはいいですよね。

北澤

作家育成という目標から考えると、それだけではどうかと思うけど。

冨田

そのとき、秋山先生の作品をつくりたい、ということは許容しないわけですよね。

井上

古典的作品の模写という条件がついてるんじゃないの。

冨田

それじゃ波山だったら「古典」であると捉えるわけですか。八木一夫の作品をつくりたいといったら、それはどうですか。

秋山

ぼくはいいと思っています、個人的には。その学生の狙いがハッキリしていれば、何でもいいという考えですね。そもそも「陶磁器1、2、3」が3つの柱だと申しましたけども、学生の取り組み方とか、指導する側のこれまでの経験からいって、ほんとにこの3つが柱たりうるものかどうか。これも考え直す時期にきているかもしれないなあと。

冨田

いまの学生には合っていないという実感がおありなんですか。

秋山

ありますよね。

2-6陶磁器1、2、3

北澤

「陶磁器1、2、3」という順番も気になりますね。この番号、偶然とも思えないんですよ。1はやっぱり、いちばん大切で、ベースになるものだという意識がある。そういう価値観の反映と考えると、「陶磁器1、2、3」は、1で機能、2で鑑賞性、3でそれらを踏まえたオルタナティブを求めると、そういう段階設定ですよね。秋山さんは、その段階式そのものに疑問をお持ちなんですか。

秋山

いえ、そういうことではないですけれども。古い話になりますが、ぼくが学生の頃は、クラフトと伝統とデコラとオブジェ、4つあったんです。いまいったのは通称で、その頃も正式な名称は「陶磁器1、2、3、4」だったんですけどもね。いつのまにかデコラというい方がなくなって、ぼくが大学に戻ってきたころには、単に1、2、3になっていたんです。

田嶋

選択制ということで、人気というか、やはりクラフトが偏るとかありますか。 秋山:これがわからないんですよねえ。全教員で担当するとはいえ、一応メインになる教員を決めるわけですから、偏りはないほうが助かる。学生にも、いろいろなところに目を向けてやってほしい。それでいろいろ工夫するんですけれども、にもかかわらず、「陶磁器1」にどさっと10人くらいきて、「3」は2人とか。そうすると授業としては、やりにくいですね。

島田

3、4年生は合同で授業するわけですか。

秋山

ミーティングは合同でしますけども、課題は違います。というか4回生は自分で課題を考えるので。ただ最近、この「陶磁器1、2、3」という枠にちょっと風穴を開けたいという考えがあって、3回生の前期に大物づくりというぼくの個人ゼミをスタートさせました。なぜかというと、近年、学生の作品が小さくなりがちな傾向にあるんです。もちろん、学生が将来どういう方向で仕事を進めていくのか、それは人それぞれですけども、一度は身体スケールでものをつくることを経験してほしいということがありましてね。大学でいちばん大きな窯が0.8立米ですから、そのまま等身大のものを焼くのは無理で、ちょっと頭が痛いんですが。

島田

手捻りですか。

秋山

3回生になったばかりの学生が対象ですから、手捻り、轆轤以外の手持ちの手段は多くありません。それくらいの大きさになると、だいたい手捻りですね。

島田

等身大ということでいえば、東京芸大が大壺をやるのと一緒ですね。

冨田

学生を放っておくと小さいものしかつくらない。だから大きいものを、というのは面白い発想ですね。変ないい方になりますけども、小さいものだけをつくるのでは、高等教育における工芸教育としては「未満」であるということですよね。

秋山

ええ、趣味の世界。

北澤

それだけの問題じゃなく、そこには展覧会、美術館が美術をつくるという隠れたアイデアがありませんか。

右澤

欧米などでは、大きさを変えるとか、数をつくるということは、アレンジメントの中で処理する場合もありますね。

北澤

デザインスクールのようなところでは、それは確かにアレンジメントの練習に過ぎないかもしれないけれども、美術教育あるいは芸術教育の中で、しかも作家養成を考えている大学において作品サイズを考えていくことは、ひとつのアレンジメントのやり方というのではなくて、やはり展覧会活動が志向されていると、そう考えていいだろうと思いますが、いかがでしょうね。

井上

学生の近年動向として切実に感じるのは、小さくても大きくても、とにかくサイズの問題ではなく、ものに関わる時の関わり方の度合いが、すごく弱くなってきていること。技術的なこととか、どこまでが基礎か、ということ以前に、どれだけ力込めてもの関われるかというところ。そこが希薄になっている、それの一つの現れが、作品の小型化なんじゃないですか。うちの学生を見ていても、自分で運べるかとか自宅に置けるかということに反応しているわけです。それを打破するためには、大ものをつくらせるということも一つの手だろうと思います。

北澤

それはよくわかるし、技術的な問題としても、先ほど島田さんがおっしゃっていたように、大きいものをつくっておけば小さいものもつくりやすいというのは納得できる。けれども、小さいものに向かっていくという、いまの若い人たちの動向をもっとポジティブに捉え返すことも必要だろうと思いますが。

秋山

ええ、ですから、等身大をつくらせたあとに、グーッと小さくなっていく学生も実際いるわけです。それはそれでいい。自分の持っている大きな物差しの中で小さいほうを選ぶというんだったら、それはリアリティがあるわけですから、かまわないと思います。だから、無理やりでも経験しなさいって。やっぱり、大変なんですよ、焼き上がりまで。もう2、3ヵ月それに神経を注がなければならないし、労力も大変なんですけどね。でも、それだけ向き合っている時間というのは、やっぱり意義があると思います。