Toshiaki MINEMURA
「峯村敏明による審査評」
版画と絵画を峻別するのはあまり意味のあることとは思えないが、両者に本質的な違いがあるとすれば、版画がプリントあるいはプレスという時点でひとつの確定された次元に圧縮ないし固定されて成立するという特殊性を持っていることだろうか。絵画(とくに油絵)は原理的にいうといくらでも添加、削除、溶解、切り貼りの余地を残しており、それゆえ近代芸術家の過大な自由、自己拡張への欲求によく応えてきたのだけれど、版画(そして写真)は版とか光学的電子的枠どりといった外在的な要素の決定的な介入によっていったん成立してしまうと、その確定次元が変更されない、たとえ可能だとしてもあえて変更しないままにしておく、というところに妙味があるように思う。作品の非完結、無限定、変容がよしとされている今日の芸術の世界で、このように芸術家(表現者)の勝手にならない他律的な次元(時間・空間・物質・位相)に決定権をゆだねているというのは、版画が不自由で非近代的な表現媒体であることのしるしだと思われるかも知れない。しかし、それだからこそ、逆に、この一抹の他律性の中に版画(そして写真)が原理的に前途有望な脱近代的芸術の手段として発展しうる可能性が潜んでいるはずなのである。
今回の大賞作品が、その一見しての古めかしさにもかかわらず、油彩技法による絵画作品からはめったに得られない独特の魅力と解放感を味わわせてくれた理由を、私はそんなふうに解釈してみた。二作品とも、タイトルと絵柄から判断するに、今年がちょうどデンマークの「絵のない絵本」作家、アンデルセンの生誕二百年に当たるのにちなんで制作したものであろう、その無限定な小説的想像空間を線とイメージのもやい綱につなぎとめた恰好の見事な細密画である。とりわけ私は、この挿絵がとりとめのない空想の飛翔や線の放恣に少しも陥っていないことを高く評価した。この作品からあふれ出ている解放感は、油彩画的な自由と変容の可能性からではなく、反対に、ガラスの表面に労して刻み込まれた図像のような時空と表現手段の圧縮されたモーメント、化石みたいに確定された次元からにじみ出ているように感じるからである。
この中世的な光(それは近代画の光とは逆に画面の奥から射してくる)に満ちた大賞作品と比べると、準大賞作品はきわめて現代的・油絵的である。つまり、ここでは加算、変容、拡張の可能性がぷんぷん匂っていて、まことに近代的現代的な自由に満ちている。油絵なら陳腐だろうが、版画技法の不自由さでバランスを得た感じである。
私が最も注目したのは、後藤冨美子や小林隆之(ともに審査員賞)のデジタル映像をコンピューター処理したらしい作品である。デジタルとかコンピューターの利用自体を新しいと思うからではない。その活用がここでは盲目的な油彩画的自由つまりは制作者というアウラの表出を切断しえているからだ。とりわけ、後藤の放り投げたような(その「放り投げ」のなんと多義的で美しいことか)多元空間貫入の図像処理が断然いい。奇妙なのは、この最も現代的な手段による作品が、最も中世的なたたずまいの大賞作品と思いもかけぬ親和性を発揮しているかに見えたことである。きっとそれは、両作品ともあの確定した次元にいさぎよく表現欲の一切をゆだねてしまっているかのごとき他律性を発揮しているからではないか。そこから、優れた芸術作品に付きもののあの解放感が発するのだろう。