Seishi OZAKU
版画とは何なのか
版画とは何なのか。
版画を制作している私にとって、いつも付きまとっている、命題です。
この印刷物の氾濫している現在、他の印刷物と違って、これは版画なのだと主張する根拠を見つけ出さないと、版画を作り続けて行く存在理由がなくなると思っています。
そのためにまず、浮世絵版画は版画ではないという所から始めようと思います。
版画という言葉を使い出したのは創作版画運動を始めた山本鼎達だといわれています。それまでの浮世絵とは違ったシステムによって作りだされたものにこの言葉を用いました。
すなわち、出版元がいて、そこから絵師に注文し、それから彫り師、摺り師にと、複数の職人の手を通して出来上がり、それが出版元から販売されるという分業の産物でした。
そのプロセスをまるごと個人に置き換え、それまでの浮世絵とは違うものだという意味をこめての版画という言葉であった筈のものが、その言葉そのものが、あまりにも的確であったために、浮世絵が作られた時代には単に摺り物とか、沢山の色がついていますという意味で、錦画と言われていたものにも使い出されてしまったと聞いています。
ヨーロッパにおける近代絵画の洗礼を受けた、私たちの先輩たちは、まるごと個人の表現として、自分でイメージを考え、それを自分で版におこし、自分で摺り上げる行為をとおしてのみアートは成立すると宣言して運動を展開して行きました。
油画が教会や王様の権威の中心から外れて、用済みになった所から、個人の制作の自由のための手段として近代絵画が始まった様に、それまでは印刷革命を担い、社会を動かし、発展に貢献してきたが、使われなくなった木版や銅版、そのあとに続いた石版等の皮肉な結果として、創作版画運動が始まったと思います。
この用済みになってしまったものの中に人間の豊かさに繋がる貴重なものが含まれていると考えるのがアートの基礎的なベースだと思います。
版画制作する姿勢として、この用済みになった技法であるがために、自由を手にいれたと考えると、プレス機からの解放、カメラ的な世界の見え方から、もう一度、人間は二つの眼を持った動物であることの自覚を持つことであり、現在のテクノロジーの進歩に背を向けることも大きな選択のひとつかもしれません。
この展覧会の審査に際して、この考えで臨みました。
Veronique DENIEUIL、SHIMIZU Masahisa、この二人の作品は、人間の手で創り上げたという手技の素朴さと、現代の大量生産とスピード重視の世界からの極にあるのではと思い、選んでみました。