Kunio MOTOE
版画の原点
2度目のミニプリント・トリエンナーレの審査に参加しつつしきりに思ったのは、やはりこうした、じかに目に(そして手に)触れることができる小ささにこそ、版画の原点があるということだった。去年の暮れに東京藝大を会場として行われたわが国では初めての版画にかんする国際的なシンポジウム(ISPA japan)の総括をするパネラーの一人として、丸三日間さまざまな現状報告、提案等に身をさらし、そこに流れる通奏低音のごとき「現場の危機感」に辟易した経験をもつ私にとって、何一つ声高に主張することなく、みずからの小宇宙に沈潜するミニプリントの群れは、まさに癒し以外の何者でもなかった。
現代版画にはある種の危機感がつきまとっているという見解は今に始まったことではない。「新しい技術」が出てくると誰かが―まるでそうすることが知性の唯一の証であるかのように―なかば神経症的に言い出すことである。版画の美術の一分野としての危機を言うのなら、それはそのまま絵画にも彫刻にもあてはまることである。本当は、版画の危機を言う前に、私たちはむしろ美術の危機を言うべきなのだ。版画の一般的な状況について公的なかたちで意見交換をするのが無意味と言うのではない。いかに議論を繰り返し、ときにはデウス・エクス・マキナ的な論法を駆使しようとも、今日の社会と歴史において版画が何であるかは、作る側と見る側の、それぞれに独立した個別の問題でしかない。この当たり前の事実を、私たちはもっと直視すべきなのだ。
私にとって版画とは、イメージ(原版)の転写もしくは圧縮によって生じうるものすべてを言う。こうした転写なり圧縮は意味と素材の双方にかかわることで、版画の小宇宙性の基礎を形成する。今回の出品作について言えば、スロヴァキアの作家ヴァヴローヴァによる大賞作品が複雑怪奇にして、どこか東方的な歴史をも持ち合わせた地域にまつわる濃厚な意味の、文字どおりの圧縮を思わせるのに対して、三瓶光夫の黒一色にこだわったヴィジョンは素材そのものの力づよい存在感で異彩を放っている。
素材の存在感ということでいえば、山下真美子(審査員賞)の黒ぐろと錯綜してやまない「時間」をそのまま転写、圧縮したかのような作例は、マチエールの重厚さで人目を引くが、それ以上に新鮮なのは見る側にいっさい媚びようとしないその頑なな態度である。同じことは瀧野尚子(審査員賞)のあっけらかんとわが道を追求する、どこかユーモラスな作例についても言えることではないだろうか。これらは版画とは何よりもまず、作者を中心とした小宇宙であることの再認識を私たちに迫るものだ(大美術館の版画室を想い起こそう)。そして、これこそはミニプリント・トリエンナーレの最大の功績であると、少なくとも私は思うのである。